聖書のお話


礼拝メッセージより み言葉をどうぞ

               *折々の写真と共に


2018年9月16日 秋空? 夏空の名残? の中に浮かぶ 愛の鐘ロッジの〈鐘〉
2018年9月16日 秋空? 夏空の名残? の中に浮かぶ 愛の鐘ロッジの〈鐘〉

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年9月16
       「 タマルの美しさに依って 」

                 森 言一郎 牧師

              創世記 38章1節~30節より

 

新約聖書の冒頭に置かれるマタイによる福音書1章の〈イエス・キリストの系図〉は創世記38章と深く結び付きがあります。

 

その中の「タマル」はヤコブの四男ユダが息子のために探してきて嫁入りした女性でした。ところが、タマルの夫は神の裁きを受け、長男、そして再婚した次男も命を奪われます。

 

本来ならばタマルは義父ユダの三番目の息子と再婚すべきでしたが、疫病神扱いされた彼女は、故郷に送り返されます。タマルはひとり孤独に実家で待ち続けますが呼び戻されることはありませんでした。

 

そのような苦しみの中にあったタマルは、一族の嫁として、当時の最も大切な務めである子どもを生むために、思いもよらぬ行動を取り始めます。ひとりの女性として、身も魂も引き裂かれるような呻吟が伴う一大決心でした。

 

何と、娼婦になりすまし、舅(しゅうと)から子種を得て、義父ユダの子を宿すのです。聖書はこのようなスキャンダルをも包み隠さず記す書なのです。

 

こうしてタマルは、マタイによる福音書の〈イエス・キリストの系図〉に記録される双子・ペレツとゼラの母となりました。聖書は義父ユダが「私よりも彼女の方が正しい」と語ったと記録します。

 

街角に座る娼婦を求めたユダもユダですが、その二人共に、救い主イエス・キリストの縁続きの存在として、あの系図に記されているのです。それが神のご計画でした。

 

私たちはひとさまに胸を張って語ることなど出来ない、恥や過去を抱えて今ここに居ることを思います。しかし聖書は、そのような私たちの存在を明確に肯定しています。その福音が今日この礼拝で明らかにされたのです。end

 


2018年9月9日 ルリヤナギ
2018年9月9日 ルリヤナギ

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年9月9
       「 戸惑いの中に 」

                   渡辺 真一 牧師

        マタイによる福音書 4章1節~11節より

 

日常の営みのなかで、私たちの理性が内的な欲求に引きずられるということはしばしば経験していることかと思います。

 

しかし時には、誘惑なるものが私たちの魂を根本から揺さぶることも起こり得ます。そこには、深い悩み、戸惑い、そうして決断へと進み至るプロセスがあると言えます。

 

主イエスへの誘惑の物語には、文面としては悩みや戸惑いの姿は描かれておらず、誘惑に対しての即断がなされているように読むことができます。しかし、初めから勝利ありきの誘惑は、誘惑たりえないものです。

 

主イエスに深い葛藤や戸惑いを与えうるものは何であるのか。それは主が愛を注がれる対象者、すなわち目の前にいる人々の痛みと苦しみの叫びこそが、真に神の子イエスを揺さぶる声であったのではないかと思うのです。

 

日々のパン・神の守り・この世の変革を切実に訴える民衆の声。それを戸惑いなしに否と答えることがたやすくできるでしょうか。しかし、神の愛は、パンを与えること、神の支えをしるしとして示すこと、社会や国家の指導者として世に立つことではない。人々の切なる声と、神の愛との狭間にあって、愛の実現に苦悩する主イエスがあったのではないかと思わされるのです。

 


2018年9月2日(日)の十文字平和教会の聖餐卓です。十字架のパンの並びがまた美しいのです。
2018年9月2日(日)の十文字平和教会の聖餐卓です。十字架のパンの並びがまた美しいのです。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年9月2
       「 空っぽになる時 」

                   森 言一郎 牧師

        マルコによる福音書 12章38節~44節より

 

舞台はエルサレム神殿です。

 

受難を前にしたイエスさまは賽銭箱の前に座っておられました。献金を捧げる人々の様子を観察されたのちに、弟子たちを呼びよせて語り始めるのです。

 

「貧しい〈やもめ〉を見なさい」と主は言われました。彼女が握りしめ、そして献げたレプトン銅貨2枚は、この世の価値基準からすると最も軽いものです。

 

ところがイエスさまは、彼女の献げ物を重く価値あるものだと宣言されました。それが〈いのち〉であり〈人生〉だったからです。

 

やもめは空っぽになりましたが、もはや他のものにしがみつかない、完全に委ね切る重みがそこにはあります。やもめの生き方は、十字架の主イエスと重なります。

 

私は洗礼を受けてクリスチャンになる方に献金について伝えることがあります。それは〈これまで〉と〈これから〉の暮らしに何らかの変化が必要だということです。何かを我慢するなどして、生き方を変える覚悟に繋がる場合だって考えられます。

 

讃美歌の512番に〈主よ、献げます、私のいのち〉〈主よ、献げます、私の手足〉という歌詞があります。最後は〈私のうちに あなたが住んで みむねのままに 用いてください〉と続くのです。

 

神さまが私たちの人生のただ中にいつも共に居られるようになるためには、「もっともっと」と求める生き方ではなく「空っぽになること」が必要なのです。

 

主は惜しみない愛を空っぽの私たちに注ぎ続けて下さいます。end 

 

 


2018年8月26日(日)の十文字平和教会の講壇。講壇の並びがあれこれ変わりました。君江さんが「インスタ映えしますねぇ」とおっしゃいました。なるほど、アーメンです。
2018年8月26日(日)の十文字平和教会の講壇。講壇の並びがあれこれ変わりました。君江さんが「インスタ映えしますねぇ」とおっしゃいました。なるほど、アーメンです。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月26
       「 ぶどう園の息子の物語 」

                   森 言一郎 牧師

        マルコによる福音書 12章1節~12節より

 

これは譬え話です。

 

まず「ぶどう園」は聖書の舞台となっている「イスラエルの社会、そこに生きる民全体」のことであることを知りましょう。

 

そこで暮らしている「農夫たち」は遠くに暮らす「主人」すなわち「神さま」から一切を任せられている「小作人」で、元来は真面目な人たちでした。

 

ところが、いつしか農夫たちは、遠くに暮らす主人が収穫期になると送り込んでくる「僕(しもべ)」殺しを始めます。

 

ここでの「僕」とは旧約の時代に次々と登場した「預言者」のことです。農夫たちが遣わされた「僕たち」=「預言者」をないがしろにするということは、イスラエルの民がみ言葉に聴かず、〈神殺しをしていた〉ことを意味しているのです。

 

最後に、農夫たちの元に送られて来たのは主人の「最愛の子」でした。

 

ところが、小作人たちは〈そーら、待ってました〉とばかりに、主人の「愛し子」を殺します。この愛し子こそ、世の辱めを受け、十字架の上で殺されるイエスさまだったのです。ここには神を必要としながら、神なしで生きようとする人間の罪と闇が浮き彫りにされます。

 

果たしてこの譬えの中に救いはあるのでしょうか。

 

あるのです。間違いなく救いはあるのです。それは十字架の上で殺され、石ころのように捨てられた主キリストが隅の親石として用いられるという預言にあります。復活の予告でした。思い巡らすならば私たちも石ころであり、復活の命に生かされています。

 

闇の向こうには、ほのかな光が確かに見えているのです。end

 

 


2018年8月19日(日)の十文字平和教会の献花です。美しいですね、本当に。ご奉仕の君江さんにも感謝。
2018年8月19日(日)の十文字平和教会の献花です。美しいですね、本当に。ご奉仕の君江さんにも感謝。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月19
       「 遠くに立って祈った人 」

                   森 言一郎 牧師

            ルカによる福音書 18章9節~14節より

 

「徴税人」はユダヤの社会で〈うとんじられている〉人でした。少し先のルカによる福音書19章に登場する〈徴税人の頭・ザアカイ〉はその代表格です。イエスさまを迎える群衆の列にザアカイは入れてもらえず、いちじく桑の木に登りました。

 

彼ら徴税人は異邦人であるローマ皇帝の手先として定めを超えた税金を取り立て、私腹を肥やしていたからです。汚れを身に帯びている罪人の烙印を押されていました。

 

ルカ福音書18章のここでの譬え話の中で、イエスさまは律法に忠実な「ファリサイ派」の人と正反対の人として「徴税人」を引き合いに出されます。

 

彼は神殿で遠くに立って胸に手を置き、短く「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈ります。この場面を読むとき、注意が必要です。イエスさまはここでの〈徴税人のお祈り〉を真似なさい、と言われたのではありません。同時に〈神殿の遠くに立つこと〉を求められたわけでもないのです。

 

この場面を我々の教会生活に置き換えて考えてみましょう。すると、日曜毎の礼拝においてただ一つのことが求められていることに気付きます。

 

それは、自分という人間が、自らの努力や修錬=善行によってでは解決できない罪を抱えている存在であることを素直に認める人でありなさい、ということです。信仰生活の要である礼拝とは実にそのような場なのです。

 

罪人としての自覚をしっかりと抱いてみ前に身を置くのがクリスチャンの基本です。私たちはその幸いな招きを今日も頂いています。感謝です。end

 


 (左側)教会経路案内の横に設置された(右側)〈礼拝案内看板〉です。満さんが全部お一人で創作。草刈りは勝さん。
(左側)教会経路案内の横に設置された(右側)〈礼拝案内看板〉です。満さんが全部お一人で創作。草刈りは勝さん。

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月12
       「 立ち止まるイエスさま 」

                   難波 實 牧師

            マルコによる福音書 10章46節~52節より

 

◆マルコによる福音書10章では、主イエスと弟子たちとがエルサレムを目指して旅を続けている。

 

 一行は、目的地まで約25kmの町エリコに着いた。徴税人の頭ザアカイが住んでいた町(ルカ19章)、「良きサマリア人」(ルカ10章)に登場する祭司、レビ人の住んでいた町である。

 

◆一行が町を出て行こうとするとき、道端に坐って物乞いをしていた盲人、バルティマイに出会った。彼は懸命に「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。しかし、周囲の者は彼を黙らそうとした。彼の思い、願いは無視されたのだ。目が見えないということは罪の結果とされ、彼は罪を負う者として扱われていたからだ。

 

 バルティマイは目が見えない自分にも、自分を罪ある者とする周囲の人々や社会にも依り頼むことが出来ないことを、身を以(もっ)て知らされていた。そんなバルティマイだからこそ、主イエスに依り頼む素地を与えられていたのだ。

 

◆主イエスは彼の叫び、祈りの前で足を止められ、彼を「呼ぶ」ように指示された。バルティマイは招かれたのだ。彼は、主イエスの言葉、招きで救われ、生き返った。

 

 我々もまたへりくだり、今日も立ち止まり、招いて下さっている主イエスの招きを受け、見るべきものを見て歩む者とされたい。end

 

 


2018年8月5日(日)礼拝後のお茶の時間に登場した〈スイカのフルーツポンチ〉。世界一の美味しさと思います。黒色はブルーベリー。房子さんからのポンチです。 photo:miki 
2018年8月5日(日)礼拝後のお茶の時間に登場した〈スイカのフルーツポンチ〉。世界一の美味しさと思います。黒色はブルーベリー。房子さんからのポンチです。 photo:miki 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年8月5
       「 いつも見守っておられる神 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 37章1節~36節より

 

 ヨセフは族長ヤコブの11番目の息子です。ヨセフは父ヤコブの偏愛もあり兄たちに妬(ねた)まれました。彼は不思議な「夢解き」の力をもっていましたが、夢解きの仕方に相当ないやらしさがあったようです。

 

 ただし、彼の夢解きは自分の努力で得たものではなく、神さまからの賜物であることは心に刻みましょう。み心が働いているのです。

 

 創世記37章に登場する人々はヨセフを含めて例外なく罪人であることを聖書は告げています。家庭内のいざこざは〈父ヤコブ〉の偏愛がそもそもの原因です。34章では〈次男シメオン〉と〈三男レビ〉は妹ディナにゆるしがたい乱暴を働いたシケムの人々を皆殺しにします。〈長兄ルベン〉は35章22節にあるように父の側女を我が物とします。ヨセフを金で売ろうと言い出した〈四男ユダ〉も次の38章で愚かしい行動を取り、マタイ福音書1章のイエスの系図に名を残すのです。

 

  「ヨセフ物語」の中に神さまの壮大で緻密(ちみつ)なご計画が垣間見えます。全てが見えない形で織りなされヨセフ物語は展開して行きます。井戸に放り込まれて死にかかったヨセフがエジプトに向かう隊商に奴隷として買われ、やがて、エジプトの宰相になるのは偶然ではありません。

 

 神さまは創世記37章に登場する人々と同じ罪人である私たちを、イエス・キリストに出会わせて下さる準備を既に始めておられたのです。end

 


2018年7月29日(日)礼拝後のお茶の時間 ブラックベリーが届いていました。プチプチとしたこの食感は他では味わえません。 photo:もりげん 
2018年7月29日(日)礼拝後のお茶の時間 ブラックベリーが届いていました。プチプチとしたこの食感は他では味わえません。 photo:もりげん 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月29
       「 その水をください 」
                森 言一郎 牧師
       ヨハネによる福音書 4章1節~26節より

 

〈サマリアの女〉と呼ばれる無名の女性は、井戸辺で水を求めて居られたイエスさまと出会い「水を飲ませてください」と頼まれました。
 
 ところがこの場面、いつの間にか話が逆転します。

 

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない…」というイエスさまのお言葉に触れた女性は「主よ、渇くことがないよう…その水をください」と叫ぶのです。
 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」という主のお言葉から、この女性が簡単には説明できない、複雑な苦悩を抱えながら生きてきた人であることは明らかです。

 

 私たちも、親にも、人にも、先生にも相談できない何かを抱えながら生きています。ここに登場するサマリアの女とは、渇き切っている何かを抱えている私たち自身を指し示してくれる象徴的な存在なのです。
 
 私たちの捧げるこの礼拝で、自分自身の「渇き」を認め、十字架の主を見上げ「その水をください」と叫ぶところから、私たちの「まことの礼拝」は始まります。
 
 やがて、イエスさまは全てを完成される十字架の上で「渇く」(ヨハネ19:28)と叫ばれます。

 

 この「渇き」こそ、私たちの救いのために命の水を注ぎだしてくださるための「渇き」です。永遠の命に至る水は十字架の主から頂くのです。end

 

 


2018年7月22日(日)礼拝報告時、この度の豪雨被害で生活が一変した正子さんから万感の思いを込めてご挨拶。photo:もりげん 
2018年7月22日(日)礼拝報告時、この度の豪雨被害で生活が一変した正子さんから万感の思いを込めてご挨拶。photo:もりげん 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月22
   「 人知を越えて エサウとの和解 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 33章1節~20節より

 

福音というもの。

 

それは聖書全体を通じて言えることですが、当たり前のことが当たり前に起こることとして示されてはいません。

 

その典型がイエスによる譬え話です。ルカ15章の放蕩息子の話、マタイ20章のぶどう園の労働者の話は、当事者としてそこに身を置いていたら「それはないよ」と言いたくなる内容であることに気付きます。

 

               **************

 

創世記33章に描かれるヤコブと兄エサウの和解の場面も出来すぎた話なのです。「ヤコブの奴、絶対にゆるさん。殺してやる」と呻き声を上げたエサウのはずです。

 

しかしエサウは穏やかに弟を迎えます。しっかりと胸に抱き口づけする。ヤコブがあらゆる知恵を用いて立てた兄への執りなしの計画は一切必要なかったのです。

 

               **************

 

ここには、ことの成り行きを離れた所から静かに見守っている方が居られました。この場面を企画・立案された神さまです。このお方がプロデューサーとして働いているからこそ、人知を遙かに超えた、広く、長く、深い愛の物語が、イエス・キリストの十字架に至るまで繋がって行くのです。

 

新しい道を歩き出したヤコブは「そこに祭壇を建て」ます。

 

「祭壇」とは〈礼拝〉と〈祈り〉の場です。人生に於いて、神さまとがっぷり四つになる場所が生きている限り必要だと知った人ヤコブのなすべき必然なのです。

 

私たちも続いてまいりましょう。end

 

 


2018年7月15日(日)淡いピンクの立葵 37℃ photo:はる 
2018年7月15日(日)淡いピンクの立葵 37℃ photo:はる 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月15日
        「 ヤコブがとった角力 」
                森 言一郎 牧師
       創世記 32章2節~33節より

 

故郷に向かうヤコブ。

 

彼は20年前、兄エサウをあざむき、逃げ出した罪の重さを自覚していました。

 

ヤコブは神の恵みを受けるに足らない者であることを祈りの中で認め「恐ろしいのです」と告白します。

 

ヤコブは知恵を用い、エサウへの出来る限りの贈り物を準備し、遣いの者に託しました。その後、家族を先にしてヤボク川を渡らせますが、それでも彼は兄エサウが恐くて渡れないのです。

 

              **************

 

独りあとに残ったヤコブ。

 

彼は〈ある人〉と夜を徹して人生最大の角力を取ります。相手は彼の股関節を外し、生涯足を引きずるようにします。また、名をイスラエルに変えるよう命じました。ヤコブは「顔を見た者は死ぬ」と知っていた神との格闘だと気付きましたが死にませんでした。

 

              **************

 

この場面、私はイエスさまの前に独りあとに残った女性を思い起こします。ヨハネ福音書8章の「姦淫の女」と呼ばれる人です。深く罪を自覚する彼女にとって、イエスさまと真っ正面から向き合うどうしても必要な場面でした。

 

独りあとに残ったヤコブは、実は、イエスさまと死力を尽くしての角力をとったのだと私は読みます。魂を注ぎ出す祈りでもありました。相手が(受肉前の)イエスだったから彼は死にませんでした。

 

ヤコブは新しい人として歩き出します。ここに、私たちの救いの道も見えて来るのです。end

 

 


2018年7月8日(日)の教会のお庭にて 立葵とおやおや、カエルさんですよ(^^♪
2018年7月8日(日)の教会のお庭にて 立葵とおやおや、カエルさんですよ(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月8日
        「 愛の家族 」
                渡辺 真一 牧師
   マルコによる福音書 3章31節~35節より

 

救い主イエスにも、血のつながりを持つ家族がいました。

 

一家を支えるべき立場であったイエスが、ある時からナザレの村を出て宣教活動を始めました。思いもよらないイエスの行動に対して、家族の困惑していたことが描かれています。

 

イエスはどうも「気が変になった」(21節)のだと人々が言っていたものですから、イエスの家族は彼を取り押さえに来たのです。この家族なりに家族を守ろうと懸命だったのです。

 

大勢の人々に囲まれていたイエスのもとに、イエスの家族がやってきました。しかし、イエスは血縁による家族との関係性に戻ることはありませんでした。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」と言い、ご自身のまわりに集まっていた人々を指して、ここに家族があることを語りました。

 

この時、イエスが見つめていたのは、この社会における血縁による家族ではなく、神の国における新しい家族なのです。マリアの子イエスではなく、神の子イエスとして、信仰と愛によって結ばれる新しい家族が生起していることを示したのです。

 

教会という場は、神を主人とする信仰者の家です。そして私たちは信仰と愛とによって結ばれた新しい家族なのです。主イエスが結んでくださったこの一点を深く受け止めることが大切です。週

 

に一度私たちはこの家に帰り、互いが休息し、互いが配慮し、互いが励ましあい、互いが霊に満たされて、また世に出ていくのです。私たちが神の家族として互いに愛し合い生きる歩みを改めて憶えたいと思うのです。

 


2018年7月1日(日)の礼拝後 お茶の時間に皆でにこにこ笑顔で頂いた、勝さんと房子さんのお宅からの初物とうもろこしです(^^♪
2018年7月1日(日)の礼拝後 お茶の時間に皆でにこにこ笑顔で頂いた、勝さんと房子さんのお宅からの初物とうもろこしです(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018年7月1日
     「 ナザレのイエスの真実 」
                   森 言一郎 牧師
      マルコによる福音書 6章1節~6節より

 

イエスさまは弟子たちを連れて故郷のナザレにお入りになります。そこは寒村です。

 

ナザレで見るイエスさまのお姿は惨めなもので、各地で劇的ないやしをされ、教えられたお姿からは程遠い状態でした。

 

以前、カファルナウムの家に滞在中のイエスの元に身内の人々がやって来た時、彼らはイエスさまを取り押さえようとしました。

 

「あの男は気が変になっている」という言葉がナザレに暮らす家族にも伝わって来ていたからです。

しかし、イエスさまにとってナザレで身内と訣別されることは必然でした。なぜなら、イエスさまが救い主=キリストとなるためには、地縁、血縁という絆が幅を利かせる故郷は、一線を画すべき象徴的な場所だからです。

 

イエスさまは故郷を持ち得ない状況に生きる人々の為に道を進まれます。イエスさまにとっての家族とは「神のみ心を行う人」のことなのです。

 

のちに、十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを母マリアや女性達は直下から見上げました。そこには神のみ心を生き始めた人の姿があります。

 

しかし、弟子たちはそこに居ません。十字架で流されたイエスの血潮こそが、やがて、信ずる者すべてを神の家族として結び合わせる唯一の絆となるのです。end

 

 


2018年6月24日(日)の礼拝後 よかったらもって帰って下さいと準備されていたタケノコです。細いのは成長が悪いのではありません。こういう時のが一番美味しいんですよ(^^♪
2018年6月24日(日)の礼拝後 よかったらもって帰って下さいと準備されていたタケノコです。細いのは成長が悪いのではありません。こういう時のが一番美味しいんですよ(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/24
     「 ヤコブ 彼はつわものか 」
                   森 言一郎 牧師
      創世記 29章1節~30節より

 

坊ちゃん育ちのヤコブ。

 

彼は伯父ラバンの元で、人生初の試練の中に置かれます。けれども、とにかく頑張るのです。

 

ひと目惚れしたラケルとの結婚生活に夢を抱き、がむしゃらに働き続けることで、兄と父を欺いてしまった苦い過去を少しでも忘れたかったのかも知れません。

 

約束の7年が経ちます。ラケルとの婚宴の日の翌朝、夫婦として朝を迎えたと思っていた女性は何と姉のレアでした。

 

しかしこれは、兄エサウになりきって父イサクを欺いた時のしっぺ返しのような事態でもありました。ここからヤコブは、さらに7年、身を粉にして働き続けるのです。何という忍耐が求められたことでしょう。

 

ヤコブには人並み以上の根性と忍耐力が備わり、彼は〈つわもの〉として成長していたから、ここでの苦難を乗り越えられたのでしょうか。敢えて申します。否なのです。

 

ヤコブは弱い人間ですし、どう見ても罪人です。

 

しかし、そんな彼を支えていたのは彼を選び取られた神さまでした。ベテルの地で〈決して見捨てない〉と約束されたお方は、最後まで責任をとるお方でもあります。

 

その憐れみに生かされているのはヤコブだけでなく、今ここで信仰の旅路を生きる私たちでもあるのです。end

 

 


2018年6月17日(日)の礼拝報告時 信徒の友7月号に投稿した短歌が採用された君江さん 歌を詠んで下さいました! 〈 あかあかと川面に夕日が映るよに私もキリスト映し出したい 〉素晴らしいです(^^♪
2018年6月17日(日)の礼拝報告時 信徒の友7月号に投稿した短歌が採用された君江さん 歌を詠んで下さいました! 〈 あかあかと川面に夕日が映るよに私もキリスト映し出したい 〉素晴らしいです(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/17
     「 一人も貧しい人はいない 」
                   森 言一郎 牧師
     使徒言行録 4章32節~5章22節より

 

使徒言行録4章のおわりから5章の初めに掛けて描かれているのは、聖霊降臨によって誕生したばかりの初期キリスト教会の様子です。

 

彼らは【心も思いも一つに】していたとあります。財産を売り払って献金する人の様子も確かに描かれていますが、それは特別な人だったはずです。

 

我々がここで黙想を深めたいのは【信者の中には、一人も貧しい人がいなかった】という言葉です。

 

彼らはお金で困ることがなかったとは思えません。お金とは異なる価値観や豊かさをもっていたのです。しかもそれは、分かち合いやすいものでした。

 

そんなものがあるのでしょうか。

 

パウロたちが確信をもって語り、分かちあうことが出来たのは彼らの成功体験ではありません。彼らの賜物とは、イエスの弟子としての失敗や挫折、あるいは自分には足りないことがあるという自覚だったのです。

 

それが初めの頃の教会に集う人々の貴い財産でした。

 

神さまの前で自分をごまかして何のよいことがありましょう。様々な意味で神さまは我々のごまかしを悲しまれます。

 

問題だらけでも大丈夫です。自らの弱さを安心して告白できる教会になりたい。そこには貧しい人は一人もいないからです。end

 

 


2018年6月10日(日)の礼拝にて 秋山さんのご奉仕の生け花です
2018年6月10日(日)の礼拝にて 秋山さんのご奉仕の生け花です

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/10
         「 旅を続けよう」
                 難波 實(みのる) 牧師
        マルコによる福音書 5章1節~20節

 

 イエスさまご一行は、ガリラヤ湖を渡りゲラサ人の地方に着いた。そこは異邦人の地で当時のユダヤの人々の考えでは汚れた地だった。 その汚れた地とされるゲラサに出向き、汚れたとされるレギオンにイエスさまは働きかけられる。

 

 レギオンとは6,000人前後で構成されたローマ帝国の軍隊組織の名に由来する。

 

レギオンは人を支配する力を象徴する。人の自らの力に依り頼むところに、汚れ、罪が生じる。この汚れという罪は、人を傷つけ、己を傷つける。レギオンも石で自分を打ち叩いて、自分を傷つけていた。

 

 レギオンに向かってイエスさまは〈汚れた霊、この人から出て行け〉と命じられた。

その言葉の背後にあるイエスさまの思いは、〈レギオンよ、回心し、神が既にあなたに備えて下さっている恵み、あなたの足許にある慈愛を知る者となりなさい。

そこにこそ慰めがあり命がある。力の世界では、傷つくだけだよ。さあ、新しい世界で生活しなさい。〉 このようなものではなかったか。

新しい世界への旅立ちへの促しである。

 

 イエスさまは我々にも今日、〈揺るぎない神の憐れみを受け、力と恐れの世界から解放され、命への旅路を歩め。〉と語って下さっている。  end 

 

 


2018年6月3日(日)の礼拝にて 秋山君江さんのいつものご奉仕です 献花にはその方の信仰や生き方が不思議にあらわれます 美しいです(^^♪
2018年6月3日(日)の礼拝にて 秋山君江さんのいつものご奉仕です 献花にはその方の信仰や生き方が不思議にあらわれます 美しいです(^^♪

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/6/3
      「 無学で普通の人が必要です 」
                 森 言一郎 牧師
        使徒言行録 4章1節~22節

 

 生まれてから40年、歩くことも出来なかった人を立ち上がらせたペトロとヨハネ。

 

 二人は神殿で捕らえられ牢獄に入れられます。でも、その後もひるむことなく確信をもって語り続けました。

 

 彼らを見て恐れを抱き始めたのは当時の権力者です。二人が伝えていた内容は十字架と復活のイエス・キリストの名による力でした。

 

 キリストの名による力とは、イエスの実在を深く信じて生きることです。ペトロとヨハネは、目に見えない主イエス・キリストを基とする生き方を始めていました。

 

 二人がイエスさまに召し出された時のことがマルコ福音書1章16節以下にあります。イエスさまはガリラヤ中を探し回って、聖書に精通した人を求めて弟子としたわけではありません。二人はガリラヤ湖の漁師です。

 

 弟子となるのに学問は必要ないのです。求められているのは学力でも知力でもありません。権力者たちは〈あいつらは無学で普通の人ではないか〉と驚きました。

 

 キリスト者として信仰生活を続けるときに、私たちは揺れ動くことがあります。

 

 しかし、イエスのみ名に信頼し、土台をそこに置いて生きる人は、激しい嵐が襲って来ようとも流されてしまうことはありません。何と幸いなことでしょう。end 

 

 


2018年5月27日(日)の礼拝にて 満さん、ご自身による祈りの前にバークレー先生の『はじめての祈り』も紹介して下さいます(^^♪ 
2018年5月27日(日)の礼拝にて 満さん、ご自身による祈りの前にバークレー先生の『はじめての祈り』も紹介して下さいます(^^♪ 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/27
      「 逃げ出した人ヤコブ 」
                 森 言一郎 牧師
      創世記 28章1節~22節

 

 聖書にはモーセやペトロをはじめ多くの逃亡者が登場します。

 

 しかし、他の誰かではなく、私たちこそが逃げ出した過去を持つ人間であることを思い起こすことは、この場面を読む時に大切です。

 

 讃美歌21-185『旅に疲れて』を開いて見ましょう。創世記28章のヤコブを思い浮かべる助けになります。

 

 1節に「旅に疲れて眠るヤコブ 石の枕、土の上。ヤコブは見た 不思議な夢、天にかかる梯子の夢を」とあります。

 

 ヤコブは夢の中で、天国からの梯子を上り下りするみ使いの姿を見ます。と、その時、主が姿を顕され、4つの約束を告げます。

 

 それは、①神が共に居ること。②どんなところでも守る。③この地に連れ帰る。④決して見捨てない、でした。

 

 これは我々への約束でもあります。

 

 先程の讃美歌185番の歌詞の欄外には、ヨハネ福音書1章51節が指示されています。イエスさまのお言葉は、ご自身の十字架が全ての罪人のための天と地を結ぶ〈梯子〉となる、という預言となっているのです。

 

 逃亡者ヤコブが石を枕にして横たわったのは最も弱い時のことでした。そのような状態で主の元に身を置き、約束の言葉を聴くこと。それこそが逃亡者である私たちの新たな始まりなのです。end

 

 


2018年5月20日(日)の献花です(^^♪ 
2018年5月20日(日)の献花です(^^♪ 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/20
      「 聖霊の働くとき 」
                 森 言一郎 牧師
      使徒言行録 3章1節~16節

 

 ペンテコステの出来事の直後、神殿での定められた祈りに出向いたペトロとヨハネを通して神のみ業が起こります。

 

二人は生まれて40年、ただの一歩も歩けなかった「足萎え」の人の前に立ち止まります。

 

ペトロは語るのです。【わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。】と。
 
 ペトロとヨハネには特別な力があったのでしょうか。いいえ、そうではありません。ペトロが神に信頼し、深く信じて【イエス・キリストの名によって】祈ったことが、この場面でみ業を起こす大前提です。

 

【名】とは実在に等しい意味があります。神の力はここに働き出すのです。

 

 二人は「言葉=口」だけの人ではありませんでした。目立たないけれども確かな行動が伴っています。それが彼に「手を差し伸べる」ことであり、「確かに目を向ける」という愛の形でした。「手と目」、つまり「看」の実践は癒しの奇跡を起こすのです。

 

 私たちにも聖霊を受けた者としてなすべきことがあります。目を向け手を差し伸べる。主のみ名に信頼して祈る。そのような具体的な関わりを持とうとする時に、神の霊は確かな力を発揮し始めます。end

 

 


2018年5月6日(日) 
2018年5月6日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/13
      「 よわさの真価 」                   

             渡辺 真一 牧師(岡山博愛会教会)                  

    第2コリント書 12章1節~10節より
  
 

 「強さ」が肯定的に、「弱さ」が否定的に受け止められている現代において、聖書は大切な信仰の視点を伝えています。

 

 立派で後ろ指をさされることがない「強さ」に満ちたパウロが、不思議な信仰体験を経てキリスト教に改宗し、そして「弱さ」を大切に生きることを語っています。

 

 パウロは強さを捨て、弱さの中でこそ与えられる深い恵みを知った人なのです。
 

 創造者なる神が、あえて人間に欠けや弱さを携えさせたのは、何か意味があるのでしょうか。

 

 思えば、もし人間が欠けのない完全な存在として造られたならば、私たちは他者を必要とせずとも生き、何事も自己完結してしまいます。そのような人の内には、隣人との愛の関係を築けないでしょうし、神を必要とさえしないかもしれません。
 

 「弱さ」とはしばしば私たちを悩ませるものですが、一方で私たちが互いを必要として生きるための大切な事柄なのです。

 

 主イエスが示された「愛」とは、強さの中から生まれるものではなく、この弱さを通して、知り、育まれ、実現するものなのです。

 

 「弱さ」は、神の恵みと出会う大切な意味を持つのです。自らの弱さと他者の弱さ。これらを通して働く愛の力を誇りとし、神が備えたもう大きな恵みとして受け止めて歩んでいきたいと願うのです。end

 

 


2018年5月6日(日) 
2018年5月6日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/6
     「 赤裸々な姿に学ぶ 鏡としての聖書」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               創世記 27章1~29節
  
 

 族長イサク。彼は100歳を過ぎて命に限りを覚える日々を過ごしていました。

 

彼は妻リベカを通して「弟が兄に仕えることになる」という啓示を知っていたのです。

 

しかし、それを無視し、長男のエサウを死ぬ前に祝福しようとします。

 

妻リベカは双子の弟息子ヤコブを溺愛。夫でありヤコブの父であるイサクを騙す

テクニックを吹き込みます。神の祝福の略奪を促しました。

 

双子の兄エサウの軽率な言動は目に余ります。 とても、長男として、次の世代の族長としての祝福を受けるに相応しい人には見えません。

 

弟ヤコブはどうか。彼の行動には神への問いかけは全くありません。母の言いなりでした。

 

新約に目を転じますとマタイ福音書の冒頭にはイエス・キリストの系図があります。

見方を変えるとそれは罪人たちの系譜です。アブラハム・イサク・ヤコブの名もあります。

 

パウロも言いました。【義人はいない、一人もいない】(ローマ書3:10)と。

 

 創世記27章に登場する人々は、誰をみても罪人であることは明らかです。しかし、ヤコブも、エサウも、リベカも、イサクも神の民の誕生のために〈欠かせない罪人〉なのです。

 

彼らこそ救い主に繋がる大切な存在です。そこに私たちの救いの道が見えています。end 


2018年4月29日(日) 
2018年4月29日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/4/29
     「 もう一度 漁に出よう」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 21章1~14節
  
 

 【わたしは漁に行く】。そう声をあげたのはペトロです。主から託された宣教に恐れをなした7人は舟を出します。

 

この場面、もはや弟子たちが伝道を投げ出してしまったのでは、と読める場面です。

 

夜明け頃、岸辺から声が聞こえました。「おかずになりそうな魚はあるかい」と呼びかけたのはイエスさまでした。しかし弟子たちは気付きません。

 

ペトロは「あるもんかい、見りゃ分かるだろう」と投げやりの返事をします。すると、イエスさまは舟の右側に網を投げるよう命じられます。 その通りにすると、網が破れそうになる程の大漁となるのです。

 

この時、弟子の一人が【主だ】と気付き叫びます。裸同然であったペトロは、上着をまとって湖に飛び込みます。罪の身の恥ずかしさを隠さずには居れませんでした。

 

陸(おか)でイエスさまがパンを裂いて分け与えて下さる場面は、初代教会の礼拝の姿を示しています。彼らは懺悔の思いを抱きながら、主が準備された朝食を囲みます。

 

ゆるしの主イエスが真ん中に居られ、弟子たちに向かって、もう一度「人間をとる漁に出なさい」と促される声が聞こえるかのようです。この声は私たちの教会への呼び掛けに他なりません。  end

 


2018年4月15日(日) 
2018年4月15日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/4/15
     「 だいじょうぶのイエス」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 20章19~31節
  
 

 イエスは甦られたという知らせは、弟子たちにとって福音ではなく迫害の【恐れ】を抱かせるものとなりました。

 

彼らがエルサレムのとある家に身を隠して息を潜めていた時、家中の鍵を下ろしていたことが伝えられていますが、これは彼らの心模様も表しています。

 

そんな弟子たちに対してイエスさまは驚くべき仕方でお姿を顕わされます。

 

彼らの真ん中に立たれたイエスさま。

 

岡山弁で言うならば「だいじょうぶじゃ」と言って下さったのです。よそ行きの言葉ではなく、弟子たちの心に届く言葉で復活のイエスさまは語られました。

 

しかも、イエスさまは弟子たちに対して<罪の赦し>の宣教のために派遣されるという使命を与えられます。

 

彼らは息を吹き掛けられて新しい人として創造されたのです。

彼らは赦されています。

 

一週間後、疑い深い弟子として知られるトマスにだけに出会っているように見えるイエスさまですが、私は違うと思います。

 

先に宣教を託された10人の弟子たち。ますます迫害を恐れていました。だからこそ、もう一度全員に対して「だいじょうぶじゃ」が必要だったのです。

 

このお言葉に支えられて、新牧師を迎えた十文字平和教会の歩みは始まり

ました。end


2018年3月25日(日) 
2018年3月25日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/3/25
       「 イエスの渇き」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 19章28~42節
  
 

 十字架の上で死を遂げられる直前にイエスさまが発せられた二つの言葉に注目しましょう。

 

先ず「渇く」と叫ばれたイエスさまのみ心を知りたいのです。

 

イエスさまの〈渇き〉が究極に於いて意味していること。

 

それはこれから先、私たちの魂の渇きがどんな形で襲って来たとしても、もう大丈夫、という宣言であるということです。

 

なぜなら、イエスさまが我々の魂の渇きを完全に身に帯びて下さるからです。

 

私たちが二度と再び、渇き切ったままの状態になってしまうことが無いよう、ご自分を信じる者に対して永遠に至る命の水を与え続けると約束されたのです。

 

それがどれほど完璧なものであるのかということを言い切るものがもう一つの

「成し遂げられた」という最期の言葉でした。

 

これは決して「あ-、これで終わってしまった」というようなものではありません。

 

イエスさまの最期のお言葉に真実な力があるのは、口先のものではないから

です。

 

そのご生涯全体を通じて紡ぎ出されたもの。

 

イエスさまの全生涯を通じての一刻も休むことのない、その歩みがあってこその

力を帯びたお言葉なのです。

 

ヨハネ福音書が【初めに言があった】から始まるのは必然でした。 end

 


2018年3月4日(日) 
2018年3月4日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/3/4
       「 極みまでの愛」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  ヨハネによる福音書 13章1~20節
  
 

 ユダの裏切りが起こる直前のこと。

 

12人の弟子たちの足をひざまずいて洗われるイエスさまは、単に足の汚れを落とそうとされるのではありません

 

「上着を脱ぐ」そのお姿には「命を捨てる」という意味が。洗い終わられたイエスさまが「上着を着る」お姿には「復活の命に生きる」という意味が秘められています。

 

ペトロとのやり取りから浮かび上がること。

 

それは、全ての弟子たちは主による洗足を受ける必要があるということです。

 

イエスさまの十字架の死によって罪を清められ、救いの命にあずかる道が

この洗足によって明らかにされています。

 

英語で「礼拝」のことを「サービス・service」と表現します。この言葉の元来の意味は「奉仕」ということです。

 

私たちが捧げている礼拝ではどのような「サービス」が行われているのでしょう。

 

肝心なのは、先ず、イエスさまが私たちのためにひざまずいて「サービス」して下さっているということです。その順番が肝心です。

 

我々は何よりも礼拝に於いてイエスさまからの「サービス」を受ける必要があります。それがあるからこそ、私たちはゆるされた者として生きることが出来るのです。

end

 

 


2018年2月18日(日) 
2018年2月18日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/18
       「 井戸を掘り続けた人 イサク」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  創世記 26章1~35節
  
 

 

 イサク。 彼は父アブラハムや息子たちのエサウとヤコブと比べてみると常に脇役です。創世記26章ではイサクにスポットライトが当たりますが、大きな盛り上がりが見られる話はありません。

 

飢饉の話、妻を妹と偽る話、神さまの祝福の約束、種を蒔くと100倍の祝福を受けた話、ペリシテ人に意地悪されても挫けることなく井戸を掘り続ける様子、ペリシテ人との和解の話が続きます。

 

 私は結婚式の司式をする際に、星野富弘さんの作品・『日日草』を新郎新婦への祝福の思いを込めて紹介することがあります。

 

                                              *

 

今日もまた一つ 悲しいことがあった 今日もまた一つ うれしいことがあった

笑ったり泣いたり 望んだり あきらめたり にくんだり あいしたり・・・・・そして

これら一つ一つを柔らかく包んでくれた数え切れないほど沢山の平凡なことが

あった

                                              *

 

 ここにはその時その時のイサクの精一杯が記されています。

 

彼は失敗もします。神さまの声も聞きます。笑顔も見えます。戸惑いの表情があります。しかし、ドラマティックではありません。

 

 人生、晴れ舞台の日は少なく、多くは平凡な毎日です。でも、イサクはいつも誠実に真面目に生きました。神の国にはイサクのような人がどうしても必要なのです。  end

 

 


2018年2月4日(日) 
2018年2月4日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/4
       「 主の招く声が聞こえる」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  マルコによる福音書 1章9~20節
  
 

 

 イエスの宣教の第一声を思い巡らしてみましょう。

ヨルダン川で洗礼を受けたイエスは、罪人と同じ地平に立ち、サタンの誘惑に満ちたこの世に身を置かれます。

 

 

 その直後に【悔い改めて福音を信じなさい】と語り始めたのです

 

30年ほど前に神学校で学び始めた頃、「低みに立ち、方向転換をする」ことの大切さを思うようになりました。

 

しかし最近、さらに深い意味合いが【悔い改め】にはあることを芥川賞作家でカトリックの信者である重兼芳子さんのある本を読んだ時に気付きました。

 

重兼さん。こういう意味のことを記されているのです。

 

「自分は神の前に壊れた存在であることを認めることが悔い改めです。反省する、後悔するとか、倫理道徳とは関係ない。み前で私は全く不完全ですと告白することです」と。

 

 イエスは神の国の福音を宣べ伝えようとされた時、当時の神学校に人材を探しに行かれたのではありません。

 

ガリラヤ湖畔でいつも通りに網を繕っていた漁師たちを招かれたのです。

彼らは向きを変えて立ち上がりました。

 

【わたしに従いなさい】という声が聞こえます。

 

【悔い改めて福音を信じる】ことは、イエスに従って生きて行くことそのものなの

です。end

 


2018年1月21日(日) 
2018年1月21日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/21
           「 旅する家族」
           

                     森 言一郎 牧師

                  マタイによる福音書 2章1~12節
  
 

 2歳迄の男児虐殺の危機を脱すべく聖家族はエジプトに向かいます。

 

戻って来る時も同様ですが、夢の中でお告げを受けたヨセフは沈黙のまま命令に従います。

 

ヨセフが夢から【起きる】という言葉は、全て「甦り」を意味する語です。

 

福音書記者マタイは新しい命に生きることを意味する語を、敢えて用いて

いるのです。

 

マタイはエレミヤ書31章にあるラマでの悲しみの記事を引用します。

 

ところが、「涙は拭われ、苦しみは報いられる。必ず帰国の時が来る。未来には希望!」という箇所を略しました。

 

旧約に精通した人々を意識したマタイらしい黙示的な記事なのです。

 

「読者よ悟れ」というメッセ-ジです。

 

イエスの帰国によって「めでたいなぁ」と言って喜ぶのは早いのです。

 

イエスはキリストとして十字架の上で命を捧げなければならない。

 

ここまでのクリスマス物語は、28章まで続く受難と復活に向けての始まりに

過ぎません。

 

洗礼者ヨハネの「悔い改めて福音を信ぜよ」の記事が続くのも偶然では

ないのです。

 

旅する家族の中心は一見すると頼りにならない小さき存在である幼子

イエスです。

 

このインマヌエルの支えと守りは、皆さんの2018年の旅路にも約束されています。 end

 


2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青
2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/7
       「 不思議 だけどそれで良し」

                          森 言一郎 牧師

                   創世記 25章7~11節、19~34節
  
 

 アブラハムが75歳の時に故郷を旅立つ際に約束されたのは祝福の源になることでした。

 

アブラハムは目に入れても痛くない程愛したイサクに祝福を引き継ぐため、召される直前まで苦心していた様子が記録されています。

 

実際イサクは大事な役割を果たしますが、それ以上に大切なのは神ご自身がイサクを祝福されたという事実(25:11)でした。

 

その後、イサクを通じて生まれてくる双子の息子たちエサウとヤコブの内、とりわけ、弟ヤコブの存在は、実に不思議な位置付けで描かれています。

 

ヤコブは兄エサウの足を引っぱるようにして母の胎から出て来る所からして問題多き存在です。

 

しかもヤコブは、父イサクが愛していたエサウの空腹を見計らって長子の権利を奪い取る等、抜け目ない嫌らしいヤツなのです。

 

                       *

 

イスラエルとは神の民を象徴的にあらわす名前。つまり祝福を受け継ぐのはヤコブなのです。

 

果たしてヤコブとは誰なのか考える必要があります。それは〈あなた〉であり〈私〉です。

 

そこに福音の真理、不思議があります。  end

 


2017年12月24日(日)
2017年12月24日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/24
       「 隙間のあるクリスマスへ」

                       森 言一郎 牧師

                   ルカによる福音書 2章1節~21節
  
 

 皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令でにぎわっていたベツレヘムの町にヨセフとマリアの姿がありました。

 

しかし、二人を受け止めてくれる親戚も宿屋もありません。

 

結局、寒風吹き抜ける隙間だらけの家畜小屋の飼い葉桶が、救いのみ子イエスが生まれ来る場所となるのです。

 

そこには、神さまのみ心が働いていました。

 

                       *

 

勅令の対象、数の内に入らなかったのが、荒れ野で星空と寒空のもと、羊たちの世話をしていた羊飼いたちでした。

 

み使いからの【今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける】の声を聴いた羊飼いたちは、飼い葉桶のみ子のもとに向かいます。

 

世界で最初のクリスマスでした。

 

もしも幼子イエスが、宿屋や神殿に生まれてきたとしたら足を踏み入れることは出来ません。

 

隙間だらけの家畜小屋だからこそ、何の恐れもなく、【さあ、ベツレヘムへ】と足を踏み出すことが出来たのです。

 

                       *

 

自分のことばかりが優先し、心の内がすし詰め状態の私たち。

 

キリストを迎え入れられるように、クリスマスの今日、隙間のある生き方を始めたいと願います。end

 

 


2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。
2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/3
         「 マリアの賛歌」

         
                    森 言一郎 牧師

               ルカによる福音書 1章39節~56節
  
 

 【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】と告白したマリア。

 

マリアとはどのような女性だったのでしょうか。

 

「受胎告知」の場面には、マリアの生い立ちなどの情報はありません。

 

いいなずけのヨセフがダビデ家の末裔であり【夫ヨセフは正しい人であった】(マタイ福音書1:19)と紹介されているのとは明らかに違います。

 

 【ナザレ】というマリアの出身の町は旧約聖書には一度も出てきません。

 

【ナザレから何か良いものが出るだろうか】(ヨハネ福音書1:46)と紹介されているような町です。また、マリアが頼りにしたエリザベトおばさんがアロン家の娘であり、その夫ザカリアが祭司であったのとも一線を画するのです。

 

*

 

 「マリアの賛歌」=「マグニフィカ-ト」の中の【身分の低い、この主のはしため】という言葉は、彼女自身の自己認識でした。

 

神様の選びが、このような小さな者に注がれているという喜びがあります。

 

 「マグニフィカ-ト」は、英語の「magnifying glass」=「虫眼鏡」の語源でもあります。

 

小さな者を顧み、米粒のような者を愛して下さる神の愛を、私たちは見いだすのですend

 

 


2017年11月19日(日)
2017年11月19日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/19
         「 愛すること 愛されること」

         
                    森 言一郎 牧師
              ルカによる福音書 10章25節~37節
  
 

 皆さんは人を「愛す」という言葉の反対語として何という言葉を考えるでしょう。

 

私は「見て見ぬ振りをする」「無視する」という状況、そして言葉を考えます。

 

*

 

善きサマリア人の譬え話として馴染みのあるこの場面、半死の重傷を負った人を見かけた祭司とレビ人のとった行動は同じでした。

 

【その人を見ると、道の向こう側を通って行った】のです。

 

 一方、ユダヤ人とは歴史的にも敵対関係にあり、蔑視されていた通りがかりのサマリア人は、これ以上のことは出来ないだろう、という程の行動と憐みをもって介抱します。

 

イエスは言われました。【行って、あなたも同じようにしなさい】と。

 

*

 

 もしも、この譬え話の結語を新しい律法として教訓的に受け止めるだけならば、我々はいつか必ず行き詰まります。出来ない自分に直面するからです。

 

私たちは無力な自分であることを認めざるをえません。

 

しかし勇気を出しましょう。

 

倒れていた名も無い旅人はこの私であり、愛をもって救ってくれたサマリア人はイエスさまであることを心に刻む所から始めるのです。

 

人生の旅路に於いて、善きサマリア人に倣うチャンスは必ず訪れます。その日その時を待ち望みましょう。end

 

 


2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝
2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/5 
         「 アブラハムが捧げたもの」

         
                           森 言一郎 牧師
              創世記 22章1節~19節
  
 

 イサクが生まれ、喜びの絶頂期にあったアブラハムに試練が襲います。

「独り子を焼き尽くすげものとして献げなさい」という神様の命令です。

 

神さまはここに集った私たちにも問うのです。

「あなたは礼拝の時の献げものとして、もっとも大切なものを本当に携えて来ているか」と。

 

アブラハムにも葛藤があったでしょう。

しかし彼は、必要最小限の言葉を口にするだけで、黙々と道を進みます。

息子イサクから「おとうさん、焼き尽くす献げものはどこにいるのですか?」と

話しかけられた時には、既に覚悟を決めていました。

主のお言葉に最後まで従うことを。

 

 目的地に到着し、祭壇を築き、息子イサクを祭壇の上に置いたアブラハム。

いざ刃物をもって、というその時、神さまはストップをかけます。

アブラハムのとった行動に、確かな信仰を確認されたからです。

 

私たちも、信じ行う信仰を全うしようとする時に、神さまの備えに気付くのです。

 イサクの代わりに備えられていた一匹の雄羊。

 

その存在はイエスさまの到来を告げる洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ福音書1:29)と叫んだ言葉と重なります。

 

主の救いのご計画に感謝いたしましょう。 end

 

 


2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪  A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿
2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪ A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/15 
         「 信仰のまなこによって 」
                             森 言一郎 牧師
              創世記 21章1節~21節
  
 

 女主人のサラ。彼女は夫アブラハムの側女ハガルが生んだイシュマエルが邪魔になりました。イサクが与えられたからです。

 

 追い出された母ハガルは息子を連れて荒れ野をさまよいます。

 

 やがて、革袋の水も尽きたハガルは息子と共に死の危機に瀕します。イシュマエルの死を覚悟し、木陰に置き去りにするのです。

 

 しかし、もはや涙するしかなくなっていたハガルに対して、神さまはみ使いを通じて「立ち上がれ、あの子を腕に抱きなさい」と語りかけます。

 

 それを聴いたハガルは立ち上がります。すると重大な変化が起こりました。目が開かれたのです。そして、その目で見いだしたのが荒れ野に湧き出ていた井戸でした。彼女は革袋に水を満たし息子に飲ませます。

 

 神さまはハガルに対して、「あそこに井戸があるから立ち上がれ」とは言われません。生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐ側にあるのを見つけたのは、ハガルが神のみ声を聴き立ち上がったからです。
 
 私たちの人生には、単純素朴にみ声に聴き従う時に見えて来る道があります。その時に与えられるのが信仰のまなこなのです。
 
 その途上には、命の水を汲み続けることが出来る井戸が備えられています。end

 

 


2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪
2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/1 
         「 その人を罪人と見なしなさい」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 18章10節~20節
  
 

 人が罪を犯してしまった時に、心から相手のことを思いながら過ちを指摘し諭すること。それが【忠告】です。

 

 忠告は二人だけの所でしなさい、とイエスさまは言われます。どうしても忠告を受け容れない時には、【その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい】と仰るのです。〈罪人〉と断定せよ、ということです。


 なんだか冷たい響きを感じる言葉で、私は長い間、躓きを覚えていました。

 

 ところが、イエスさまが「愛に根ざして真理を語る」お方なのだと気付いた時に、「もしや」と思い、目が開かれました。このお言葉にこそ救いがあるのだと。


 徴税人マタイが召し出された時のことを思い出しましょう。その直後、イエスさまはマタイを含む罪人たちと車座になって宴を開くのです。
そして仰いました。【私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人招くためだ】と。


 救いを本当に必要とするのは《罪人》以外にありません。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために、罪人の烙印を押して下さるお方です。

 

 ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。共に喜びましょう。end

 

 


2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。
2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/17 
         「 毒麦が引き抜かれないわけ」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 13章24節~30節
  
 

 私たちは時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

 「毒麦」の譬え話とはあくまでも〈天の国〉の譬え話なのです。ここで示されるのは世間一般に通用する倫理ではありません。
 
 「善は急げ」という言葉をご存じだと思います。譬え話の僕たちも直ぐに行動に移そうとします。ところが主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。
 
 イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。それは最後のさいごになって、天の国では思いがけないことが起こる可能性があるからです。
 
 私たちが人生の途上で育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が複雑に絡みついているからです。
 
 良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていることを知りましょう。
 
 イエスさまは仰います。【両方とも育つままにしておきなさい】と。毒麦が最後に「悔い改める」かも知れない。
 
 神さまはその日まで待ち続けて下さる忍耐強いお方です。そこには、計り知れないほど深い愛があります。end

 

 

 


2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所
2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/3 
        「 我ら、主の憐れみに生きる
                    森 言一郎 牧師
     マタイによる福音書 9章35節~10章16節

 

 心をとめたいこと。

 

 それは12人の弟子たちを宣教のために派遣される直前に記録されているイエスさまの〈心情〉です。

 

 飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆との出会いの中、主は「深く憐れまれた」とあります。

 

 この一語を読み飛ばしてはなりません。日本語の持つ「憐れみ」のニュアンスとイエスさまの心情を表す「憐れみ」は別ものだからです。


 ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」と表現しました。

 

 「コンパシオンは、ただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」と言われます。


 「憐れみ」という言葉は、弟子たちを、そして私たちを、傷みや失意、恐れの中にある人々のところへ赴かせます。

 

 そこで求められるのは成功体験ではありません。

 

 ただ共に身を置くことであり、弱い人と共に弱くなり、無力な人と共に無力になることです。

 

 そこでの真実な祈りと賛美こそ、力と希望に変えられる扉です。end

 

 


2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。
2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/20 
        「 マタイの創造
                    森 言一郎 牧師
           マタイによる福音書 9章9節~13節

 

 ここに登場する徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。

 

 それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。


 パウロが第二コリント書5章17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と記しましたが、まさにその出来事が起こります。


 世の中に溢れているものがあります。

 

 テレビやラジオ、そして新聞にも様々な〈声〉があります。インターネットの時代になり、興味あることを調べようとすると、驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

 しかし、キリスト者に必要なのは、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉です。

 

 程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。イエスさまが罪人や徴税人たちと食事をなさった時のことです。

 

 マタイは【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、生涯、主に従って行く決心が出来たのです。

 

 わたしたちも主のお招きに応える時、創造のみ業が起こります。ここに福音があります。end 

 

 


2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい
2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/8/6 
        「 執り成しを生きるために 」
                    森 言一郎 牧師
          創世記 18章16節~33節

 

 キリスト者にとって、執り成しの祈りを捧げることは大切なつとめです。

 

 アブラハムは甥っ子のロトが暮らすソドムが滅亡の危機にあることを知り、主のみ前で必死の交渉を始めます。これが執り成しです。

 

 何人かの義人が居るとしたら、どうか滅びの裁きから逃れさせて下さい、と祈るのです。

 

 アブラハムの前に立っておられる主ご自身も喜ばれたことでしょう。


 一見するとアブラハムによる執り成しの祈りは上手くいったかのように見えます。

 

 しかし、続く19章にはソドムの滅亡の場面が描かれています。ソドムに義人は一人も居なかった。ソドムにはアブラハムの執り成しではとても足りない不義が蔓延していたのです。

 

 聖書を読む時に求められる肝心なことがあります。とりわけ、旧約を読む時には、新約のイエス・キリストの姿を思いながらみ言葉に向き合うことが大切です。

 

 つまりこのアブラハムによる執り成しの場面は、一人のお方の執り成しを待ち望みつつ、み言葉に聴くことが求められるのです。それが主イエスによる執り成しです。

 

 人間には常に限界があります。そのことを率直に認めつつ、尚、執り成しの祈りを捧げる姿勢をもつことこそが私たちのつとめです。end

 

 


2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐
2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/16 
        「 もう一人の放蕩息子 」
                    森 言一郎 牧師
         ルカによる福音書 15章22節~32節

 

 ここには怒りを抑えきれず、感情のままにその思いを父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように真面目一本槍で生きて来た者にとって、父親の弟息子に対する気前の良さは受け入れ難いいことでした。

 

何しろ、財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟は、放蕩の限りを尽くし、異邦の国でのけがれを身に帯びて帰って来ているのです。

 

にもかかわらず、父親は弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。信じられないことでした。

 

 実はこの兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学

者〉の分身です。弟息子の方は、イエスさまの元にやって来て話を聴いていた〈徴税人や罪人たち〉でした。

 

 お兄ちゃんをなだめようとした父親は宴席を離れて外に出ますが、その父に対して、兄がこれ程までに激しくぶつかって行ったことなど無かったのです。

 

 この場面、兄さん息子が父親の胸にしっかりと抱きしめられていたことが肝心です。兄が父の元に帰って来た瞬間だからです。父からすれば兄ももう一人の愛する息子でした。

 

私たち、兄のような一面をもっていないでしょうか。日曜日の礼拝は父の元に立ち帰る絶好の機会です。end