聖書のお話


礼拝メッセージより み言葉をどうぞ

               *折々の写真と共に


2018年1月14日(日) 
2018年1月14日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/14
       「 星と夢に導かれて」

           

                     笹部 一正 牧師

                  マタイによる福音書 2章1~12節
  
 

 マタイ福音書のクリスマスメッセ-ジは、父ヨセフは夢から神のメッセ-ジを聴き、ペルシャの博士達は天体の星に導かれました。

 

そこには、何ら科学的な根拠があったのではありません。星と夢に導かれて・・・。

 

博士達は遠いペルシャからユダヤの王として生まれる救い主を求めて、砂漠の中を旅しました。

 

イザヤ書はペルシャ王キュロスが神の使者として、捕囚の民ユダヤを解放された方である事を告げています。

 

ユダヤとペルシャとの間に、何か不思議な縁を感じさせられます。

 

博士達は星に導かれて、幾日も砂漠の中で長い旅をしました。

どこへ行くのか解らない旅・・・。ベツレヘムの星・・・。その星の背後で、博士達の求道の旅があったと想われます。

 

現代は私たちを導いてくれる星がありません。

 

更に、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に止まった。」と・・・。

 

「何も話をしない星が、博士達に何かを語ったのです!」

寒い夜空で、星が博士達に、何かを語ったのです!

 

幾晩も星を見つめて旅すると、星が博士達に何かを語りかけた様に想われます。     end

 


2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青
2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/7
       「 不思議 だけどそれで良し」

                          森 言一郎 牧師

                   創世記 25章7~11節、19~34節
  
 

 アブラハムが75歳の時に故郷を旅立つ際に約束されたのは祝福の源になることでした。

 

アブラハムは目に入れても痛くない程愛したイサクに祝福を引き継ぐため、召される直前まで苦心していた様子が記録されています。

 

実際イサクは大事な役割を果たしますが、それ以上に大切なのは神ご自身がイサクを祝福されたという事実(25:11)でした。

 

その後、イサクを通じて生まれてくる双子の息子たちエサウとヤコブの内、とりわけ、弟ヤコブの存在は、実に不思議な位置付けで描かれています。

 

ヤコブは兄エサウの足を引っぱるようにして母の胎から出て来る所からして問題多き存在です。

 

しかもヤコブは、父イサクが愛していたエサウの空腹を見計らって長子の権利を奪い取る等、抜け目ない嫌らしいヤツなのです。

 

                       *

 

イスラエルとは神の民を象徴的にあらわす名前。つまり祝福を受け継ぐのはヤコブなのです。

 

果たしてヤコブとは誰なのか考える必要があります。それは〈あなた〉であり〈私〉です。

 

そこに福音の真理、不思議があります。  end

 


2017年12月31日(日)
2017年12月31日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/31
       「 クリスマスを考える」

           村上 伸 著 いのちを望む神より

                     伊丹 敏久 兄

                   ルカによる福音書 2章10節~14節
  
 

 キリスト教の暦(教会暦)では、クリスマス前の4週間(待降節)から、新しい一年の歩みを始めることになっています。

 

待降節をアドベントと言いますが、これは「来る」という意味のラテン語から来た言葉です。

キリストがこの世に来られるのを待つという意味をこめているのです。

クリスマスが近づくと人は何となく普段よりも優しい思いやりの心を持つようになります。それは、イエス・キリストが誰よりも人を愛された方で、苦しみの中にある人々と涙を共にされたと言う事を思うからでしょう。

                       *

 第二次世界大戦中のドイツの詩人、ヨッヘン・クレッパ-はユダヤ人である妻と子が、アウシュビッツに送られることが明らかになった時、家族でガス自殺を遂げました。キリスト者の彼にとって自殺は罪です。

しかし彼は、この極限状態の中でもキリストを仰ぐことをやめてはいませんでした。それは、イエス・キリストがどん底の人間を愛し、いつもそばに立ち給う方で、地獄の底までも下りてくださる方だと信じて片時も疑わなかったからでしょう。

 イエス・キリストの誕生は神の力によって、この世が「新しく」始まったことを意味しているのです。処女降誕という生理学的に説明の出来ない出来事も、それは神の力によって、驚くべき新しい出来事として起こったことなのです。 

 私たちは、決して一人ではないのです。

そこに既にイエス・キリストがいる。この喜び。

 それが、皆さんの中に与えられ、新しい自己が誕生し、その静かな、深い喜びを持って新しい年を迎えましょう。  end

 


2017年12月24日(日)
2017年12月24日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/24
       「 隙間のあるクリスマスへ」

                       森 言一郎 牧師

                   ルカによる福音書 2章1節~21節
  
 

 皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令でにぎわっていたベツレヘムの町にヨセフとマリアの姿がありました。

 

しかし、二人を受け止めてくれる親戚も宿屋もありません。

 

結局、寒風吹き抜ける隙間だらけの家畜小屋の飼い葉桶が、救いのみ子イエスが生まれ来る場所となるのです。

 

そこには、神さまのみ心が働いていました。

 

                       *

 

勅令の対象、数の内に入らなかったのが、荒れ野で星空と寒空のもと、羊たちの世話をしていた羊飼いたちでした。

 

み使いからの【今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける】の声を聴いた羊飼いたちは、飼い葉桶のみ子のもとに向かいます。

 

世界で最初のクリスマスでした。

 

もしも幼子イエスが、宿屋や神殿に生まれてきたとしたら足を踏み入れることは出来ません。

 

隙間だらけの家畜小屋だからこそ、何の恐れもなく、【さあ、ベツレヘムへ】と足を踏み出すことが出来たのです。

 

                       *

 

自分のことばかりが優先し、心の内がすし詰め状態の私たち。

 

キリストを迎え入れられるように、クリスマスの今日、隙間のある生き方を始めたいと願います。end

 

 


2017年12月17日(日)
2017年12月17日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/17
         「 慰めよ、慰めよ」

         
                    笹部 一正 牧師

               イザヤ書 40章1節~11節
  
 

 イスラエルの歴史は大きく三つに分かれます。

最後の三つ目の歴史は、40数年の間バビロニヤで捕囚生活をした南ユダの人達の期間です。

 

イザヤ書では、神はペルシャ王キュロスを通してイスラエルの解放の為に、キュロス王に油を注いだと語っています。

                       *

古代中近東では、征服した民を他所へ連れ去り、混血を進め民族の独自性を奪い取りました。

しかし、キュロスは征服した民を寛大に扱い、支配を安定させました。

キュロスはバビロニヤを征服し、周りの国々の武装を解除させ、征服地を拡げていった勝利者です。

キュロスは神からの救いをこのバビロニヤの捕囚地に運ぶ為に、神によって呼び出された異国の王であります。

イスラエルの捕囚の民はキュロスを、不安の元凶と恐れていました。

神は預言者イザヤを呼び、ペルシャ王キュロスがイスラエルを解放する救い主である事を伝えます。

 

40章冒頭の言葉は「慰めよ、慰めよ」と云う神の福音の叫びです。

今までの暗い、苦しい捕囚の生活からエルサレムへ帰れると云う喜びと希望のメッセ-ジが満ち溢れています。 end

 

 


2017年12月10日(日)
2017年12月10日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/10
         「 病に苦しむ家族、女性と共に」

         
                    笹部 一正 牧師

               ルカによる福音書 8章40節~56節
  
 

 ユダヤ教の会堂長・・・。娘が重体に陥り如何にもならない事態に直面し、自尊心を捨ててイエス様にひれ伏したのであります。

イエス様の会堂長の家への道中、群衆が押し寄せてきました。

 

群衆に紛れて長血を患った女性が後ろからイエス様の服の房に触れました

彼女は、長血で12年間悩んで生きてきました。

治療の為に財産の全部を注いだが癒されず、医者に対して不信感を持った事と思われます。

それでも彼女は絶望せずに群衆の中でイエス様に触れようとしました。

 

イエス様の衣の房に触れただけで、一瞬に病気から解放された女性の姿が描かれています。

「私に触れたのは誰か?」とイエス様は問いかけました。

それは彼女の想いを受け止め、苦しみから解放され、社会へ復帰出来る事を願ったからです。

どのような辛い病気に陥っても、諦めなかった彼女の姿勢が伺えます。

 

その後「お嬢さんは亡くなりました」と・・・。

「死ねばすべて終わりだ」と死を絶対化するニヒリズムに支配された思想・・・。

 

イエス様は「泣くな死んだのではない。眠っているだけだ」と語られます。

イエス様の眼では死んだ少女は眠っており、その御言葉に私達は希望を持ちたいと思います。 end

 

 


2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。
2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/3
         「 マリアの賛歌」

         
                    森 言一郎 牧師

               ルカによる福音書 1章39節~56節
  
 

 【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】と告白したマリア。

 

マリアとはどのような女性だったのでしょうか。

 

「受胎告知」の場面には、マリアの生い立ちなどの情報はありません。

 

いいなずけのヨセフがダビデ家の末裔であり【夫ヨセフは正しい人であった】(マタイ福音書1:19)と紹介されているのとは明らかに違います。

 

 【ナザレ】というマリアの出身の町は旧約聖書には一度も出てきません。

 

【ナザレから何か良いものが出るだろうか】(ヨハネ福音書1:46)と紹介されているような町です。また、マリアが頼りにしたエリザベトおばさんがアロン家の娘であり、その夫ザカリアが祭司であったのとも一線を画するのです。

 

*

 

 「マリアの賛歌」=「マグニフィカ-ト」の中の【身分の低い、この主のはしため】という言葉は、彼女自身の自己認識でした。

 

神様の選びが、このような小さな者に注がれているという喜びがあります。

 

 「マグニフィカ-ト」は、英語の「magnifying glass」=「虫眼鏡」の語源でもあります。

 

小さな者を顧み、米粒のような者を愛して下さる神の愛を、私たちは見いだすのですend

 

 


2017年11月26日(日)
2017年11月26日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/26
         「 主のまなざしの下で」

         
                    阪西 恵理子 牧師

              サムエル記上 16章1節~13節
              ルカによる福音書 18章9節~14節
  
 

 私たちは外見の印象で人を判断してしまうが、神の視点は異なる。

 

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」

サムエル記上16章7節

 

*

 

見た目で判断されない神はまた、年齢や華々しい成功や信仰年数にも左右されることなく、人の進退もまた神の手の中にある。

 

かつてサウル王に油を注がれたのは主であり、退けられるのも主ならば、次にダビデを立てられるのも主である。

 

また【主は心によって見る】ことは、イエス様の譬え話にも通ずる。

二人の心の内は傍目には分からない。

見えない心の中をクロ-ズアップしている。

ファリサイ派の人は「自分に罪のないことを感謝する祈り」を捧げ、徴税人はうつむいたまま胸をたたき続けて主の憐れみを請うたという。

イエス様はこの物語を『(自分)を正しい人間であると確信し、(その自分と比べ)他人を取るに足らないと考える』人々に対して話をされたのだという。

 

私たちは用いられる時もあれば退けられる時も来る。

また悔いることもあれば、傲慢な考えに陥ることもある。

神は弱さを抱えた我々に救い主をお与えくださった。

 

その愛と公正に満ちたまなざしの下に私たちは置かれている。

感謝と謙虚な思いをもって受け止めさせていただきたい。  end

 

 


2017年11月19日(日)
2017年11月19日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/19
         「 愛すること 愛されること」

         
                    森 言一郎 牧師
              ルカによる福音書 10章25節~37節
  
 

 皆さんは人を「愛す」という言葉の反対語として何という言葉を考えるでしょう。

 

私は「見て見ぬ振りをする」「無視する」という状況、そして言葉を考えます。

 

*

 

善きサマリア人の譬え話として馴染みのあるこの場面、半死の重傷を負った人を見かけた祭司とレビ人のとった行動は同じでした。

 

【その人を見ると、道の向こう側を通って行った】のです。

 

 一方、ユダヤ人とは歴史的にも敵対関係にあり、蔑視されていた通りがかりのサマリア人は、これ以上のことは出来ないだろう、という程の行動と憐みをもって介抱します。

 

イエスは言われました。【行って、あなたも同じようにしなさい】と。

 

*

 

 もしも、この譬え話の結語を新しい律法として教訓的に受け止めるだけならば、我々はいつか必ず行き詰まります。出来ない自分に直面するからです。

 

私たちは無力な自分であることを認めざるをえません。

 

しかし勇気を出しましょう。

 

倒れていた名も無い旅人はこの私であり、愛をもって救ってくれたサマリア人はイエスさまであることを心に刻む所から始めるのです。

 

人生の旅路に於いて、善きサマリア人に倣うチャンスは必ず訪れます。その日その時を待ち望みましょう。end

 

 


2017年11月12日(日)夏には満開だった駐車場のルリヤナギの花もそろそろ終わりの季節
2017年11月12日(日)夏には満開だった駐車場のルリヤナギの花もそろそろ終わりの季節

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/12
         「 型破りの信仰」

         
                    笹部 一正 牧師
              創世記 38章1節~26節
  
 

 私達は予期せぬ事態が起こって、今までのマニュアルが役に立たなくなる時が来ます。

 

長男エルが死んだので、ユダは次男オナンに長男の子孫の為に、長男の嫁タマルを嫁にする事を命じました。

レピラ-ト婚です。

ところが、次男オナンは財産権が兄の子供になるので、兄嫁と寝る事を拒否しました。「主は意に反したので、オナンを殺された。」と...。しゅうとユダはタマルを恐れ、「三番目のシェラはタマルと結婚させてはいけない」と考え、タマルを遠ざけたのです。

その後、他所の土地でユダは大きな収穫を終え、解放的な気分になりました。

しかし、妻を亡くして満たされない寂しさがありました。

タマルは三男の妻にして貰えないので、捨て身の行動に出ました。

彼女は娼婦に扮してしゅうとユダを待ち伏せしました。

そしてしゅうとユダの子供を身ごもります。

3カ月程経ってユダの元に嫁タマルの妊娠が報告されます。

ユダは「あの女を焼き殺してしまえ。」と、法外な命令を下します。

タマルは使いをやって、「私はこの品々の持ち主によって身ごもったのです。」と、しゅうとユダに一撃を与えます。

ユダは「私よりも彼女が正しい。」と自分の非を認めています。 end

 

 


2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝
2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/5 
         「 アブラハムが捧げたもの」

         
                           森 言一郎 牧師
              創世記 22章1節~19節
  
 

 イサクが生まれ、喜びの絶頂期にあったアブラハムに試練が襲います。

「独り子を焼き尽くすげものとして献げなさい」という神様の命令です。

 

神さまはここに集った私たちにも問うのです。

「あなたは礼拝の時の献げものとして、もっとも大切なものを本当に携えて来ているか」と。

 

アブラハムにも葛藤があったでしょう。

しかし彼は、必要最小限の言葉を口にするだけで、黙々と道を進みます。

息子イサクから「おとうさん、焼き尽くす献げものはどこにいるのですか?」と

話しかけられた時には、既に覚悟を決めていました。

主のお言葉に最後まで従うことを。

 

 目的地に到着し、祭壇を築き、息子イサクを祭壇の上に置いたアブラハム。

いざ刃物をもって、というその時、神さまはストップをかけます。

アブラハムのとった行動に、確かな信仰を確認されたからです。

 

私たちも、信じ行う信仰を全うしようとする時に、神さまの備えに気付くのです。

 イサクの代わりに備えられていた一匹の雄羊。

 

その存在はイエスさまの到来を告げる洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ福音書1:29)と叫んだ言葉と重なります。

 

主の救いのご計画に感謝いたしましょう。 end

 

 


2017年10月29日(日)
2017年10月29日(日)

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/29 
         「 小さな群れよ、恐れるな 」

         
                           笹部 一正 牧師
              ルカによる福音書 12章28節~32節
  
 

 この箇所は2016年度、17年度の教会標語の聖句です。

 

並行記事であるマタイ山上の説教ではルカの「小さな群れよ、恐れるな」の聖句がありません。

 

ルカはマタイの「思い煩うな」の説教に32節の聖句を挿入する事によって、31~32節がルカ12章22~32節の中心になっていますそれが、著者ルカの意図です。

 

何故、ルカはルカ福音書にこの聖句を入れて、全体の中心に編集したのでしょうか。

 

ルカは富について警告が観られます。今日の聖書の箇所の前に「愚かな金持ち」のたとえがあります。人の命は富によらないと・・・。

 

22~34節では、「思い煩い」に対して、自分を見失わない様に語っています。

 

パレスチナにはアネモネが咲き、一日で枯れます。神は鳥や一日で枯れる野の花を養うのだと人々に語ります。

 

キルケゴ-ルは、「空の鳥と野の花」を沈黙の教師と呼びます。だから、「神の国を求めなさい」と語ります。

 

更に「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる」と、イエス様は希望の福音を語っておられます。

 

この「小さな群れ」は病に苦しむ者、貧しい者であります。神は「小さな群れ」を喜びの祝福へと招かれるのです。 end

 

 


2017年10月22日(日)リンドウの紫色が鮮やか
2017年10月22日(日)リンドウの紫色が鮮やか

     ◇先週の信徒礼拝より◇   ☆2017/10/22 
         「 神との出会い 」

         キリスト教の人生論:桑田秀延著をもとにして

           自らの体験も加えてのあかし


                             布下 満 兄
              ルカによる福音書 15章17節~20節
  
 

 われわれ現実生活における人間関係には二種類あって、「われとそれ」「われとなんじ」がそれである

 

 つまり人格関係の有無にかかわっている。

人間はたいての場合自己本位(エゴイスト)なので、最も身近にいる人とさえ人格関係を結ぶ事が出来ないでいる。

つまり出会いがない。

 

旧約聖書(創世記)には、神に創られた人が神にそむき追放された。そして兄弟殺しまで起こしている。神から離れた人間は罪の世界に入る。人は自分の力では罪からは、どうあがいても逃れることはできない。

 

たった一つ道がある。

神の前に罪のままの自分を投げ出すことだ。

ただ、神の恵みにたよる他はない。

 

人間のエゴイズムという邪魔者(苦・罪・死)をイエス・キリストは十字架上で一切をにない、取り除かれた。

光の道をそなえてくれた。

そこで人は自らの罪を認め悔い改めて、神との間に人格的 やわらぎ(和解)が必要となる。

そのことが「神との出会い」である。 end

 

 


2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪  A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿
2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪ A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/15 
         「 信仰のまなこによって 」
                             森 言一郎 牧師
              創世記 21章1節~21節
  
 

 女主人のサラ。彼女は夫アブラハムの側女ハガルが生んだイシュマエルが邪魔になりました。イサクが与えられたからです。

 

 追い出された母ハガルは息子を連れて荒れ野をさまよいます。

 

 やがて、革袋の水も尽きたハガルは息子と共に死の危機に瀕します。イシュマエルの死を覚悟し、木陰に置き去りにするのです。

 

 しかし、もはや涙するしかなくなっていたハガルに対して、神さまはみ使いを通じて「立ち上がれ、あの子を腕に抱きなさい」と語りかけます。

 

 それを聴いたハガルは立ち上がります。すると重大な変化が起こりました。目が開かれたのです。そして、その目で見いだしたのが荒れ野に湧き出ていた井戸でした。彼女は革袋に水を満たし息子に飲ませます。

 

 神さまはハガルに対して、「あそこに井戸があるから立ち上がれ」とは言われません。生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐ側にあるのを見つけたのは、ハガルが神のみ声を聴き立ち上がったからです。
 
 私たちの人生には、単純素朴にみ声に聴き従う時に見えて来る道があります。その時に与えられるのが信仰のまなこなのです。
 
 その途上には、命の水を汲み続けることが出来る井戸が備えられています。end

 

 


2017年10月8日(日)今日の秋色脇役は、セイタカアワダチソウです。
2017年10月8日(日)今日の秋色脇役は、セイタカアワダチソウです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/8 
         「 地縁、血縁から別れを告げるアブラム」
                             笹部 一正 牧師
               創世記 12章1~4節、
15章1~6節
  
 

 何故、神様はアブラムに慣れ親しんだ生まれ故郷から、主の示された土地へ向かうよう命じたのでしょうか。

 

聖書を読むと、私達は神が人間にとんでもない事を命じておられる記事に多く遭遇します。

ところが、1~11章の物語は、血縁地縁に繋がった人間の姿...。

ここには人間が罪に陥った物語が描かれています。

 

 

 12章からのアブラム物語は、イスラエルの歴史の出発点である事に注目したいと思います。

アブラム物語の出発は、目的地よりも生まれ故郷を離れる事に強調点が置かれています。

一家親族も同じ地域に住み、利権を守り、結束したと観られています。

地縁血縁の社会は、共同体の秩序を破壊する事を聖書は語っています。


  12章は、今までの地縁血縁の原初史と闘った文書であります。

15章で主は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と、天の星ほどの子孫が与えられる事を語られました。

「アブラムは高齢にも拘わらず主を信じた」と...。


 わたしたちが課題に直面した時「自分自身を確かにさせる」手段が必要です。

私達は、主を信じる信仰に導かれました。

 

 どれだけ「主が自分自身を確かにされる」方として受け止めているかが問われています。 end

 

 


2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪
2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/1 
         「 その人を罪人と見なしなさい」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 18章10節~20節
  
 

 人が罪を犯してしまった時に、心から相手のことを思いながら過ちを指摘し諭すること。それが【忠告】です。

 

 忠告は二人だけの所でしなさい、とイエスさまは言われます。どうしても忠告を受け容れない時には、【その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい】と仰るのです。〈罪人〉と断定せよ、ということです。


 なんだか冷たい響きを感じる言葉で、私は長い間、躓きを覚えていました。

 

 ところが、イエスさまが「愛に根ざして真理を語る」お方なのだと気付いた時に、「もしや」と思い、目が開かれました。このお言葉にこそ救いがあるのだと。


 徴税人マタイが召し出された時のことを思い出しましょう。その直後、イエスさまはマタイを含む罪人たちと車座になって宴を開くのです。
そして仰いました。【私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人招くためだ】と。


 救いを本当に必要とするのは《罪人》以外にありません。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために、罪人の烙印を押して下さるお方です。

 

 ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。共に喜びましょう。end

 

 


2017年9月24日 彩り添える黄色いカーネ-ションから優しい雰囲気が伝わって来ます
2017年9月24日 彩り添える黄色いカーネ-ションから優しい雰囲気が伝わって来ます

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/24 
         「 ノアの息子たち」
                    笹部 一正 牧師
              創世記9章18節~28節
  
 

 「ノアは葡萄畑を作り始めた」と...。

日本の新教は、明治にアメリカの宣教師達がピュ-リタンの伝統を継いでいました。

禁酒禁煙を実現しようとして、宣教師達もお酒を止めて、日本の教会に守らせようとしました。ところが聖書に於いては、葡萄酒は「顔の色艶を良くする油」と、書かれています。

 

「酒造りの先祖ノア」が偲ばれます。

しかし「ノアは酔っ払って裸で横になっていた」と...。

 

この物語はノアの酔っ払いではなく、年老いた父ノアへの三人の息子達の振る舞いであります。三男ハムは「父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」と、書かれています。

 

ところが「セムとヤフェトは着る物を持って来て、肩にかけ後ろ向きに歩いて、父の裸を覆った」と記載されています。これは老いた父や母の心や振る舞い、それも自然な老化現象であるのに、その恥部を突き刺して軽蔑しているのです。

二人の息子は老いた父の哀れな醜さ、恥を自分で見ようとはしません。

他の誰にも見せないようにそっと覆った、隠したというのであります。

 

美しい白髪は栄光の冠でありますが、老人と若者の共同作業であると想われます。私たちは心したいと思います。

 

 

 

 


2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。
2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/17 
         「 毒麦が引き抜かれないわけ」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 13章24節~30節
  
 

 私たちは時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

 「毒麦」の譬え話とはあくまでも〈天の国〉の譬え話なのです。ここで示されるのは世間一般に通用する倫理ではありません。
 
 「善は急げ」という言葉をご存じだと思います。譬え話の僕たちも直ぐに行動に移そうとします。ところが主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。
 
 イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。それは最後のさいごになって、天の国では思いがけないことが起こる可能性があるからです。
 
 私たちが人生の途上で育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が複雑に絡みついているからです。
 
 良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていることを知りましょう。
 
 イエスさまは仰います。【両方とも育つままにしておきなさい】と。毒麦が最後に「悔い改める」かも知れない。
 
 神さまはその日まで待ち続けて下さる忍耐強いお方です。そこには、計り知れないほど深い愛があります。end

 

 

 


2017年9月10日(日)十文字平和教会の講壇献花です 秋ですね
2017年9月10日(日)十文字平和教会の講壇献花です 秋ですね

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/10 
        「 弟子たちの派遣
                   浜田 美也子 牧師
        マルコによる福音書 6章6b~13節

 

 イエスは12弟子を付近の村々に派遣します。12は完全数ですから、弟子の中に私たちも含まれるのです。杖一本だけ持ってパンも袋もお金も持たせないでこの世界に遣わすのです。


 当時神殿の中に入るときは、何も持つことができませんでした。村々、家々を巡るとき、あたかもそれが神の家であるかのように訪れよとイエスは命じられたのです。

 

 けれども、もし拒まれたなら、足の裏の塵を払い落して出ていきなさいとも命じられるのです。


 私たちの宣べ伝えには限界があります。不十分でしかありません。だから、後は神が働くのです。「ミッション オブ ゴッド」という神学用語があります。本当に働くのは神ご自身なのです。

 

 私たちはその使い走りをしているだけです。イエスは不十分な私たちを、遣わされます。私たちは出かけていき、できるだけのことはします。時に失敗し、時に相手を怒らせ、傷つけます、また傷つけられます。成果もあげられません。

 

 弟子たちの失敗と無力さと不信仰と自己顕示欲と裏切りは、私たちの姿なのです。こんな弟子たちを、つまり私たちをイエスは癒し、慰めてくださるのです。

 


2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所
2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/3 
        「 我ら、主の憐れみに生きる
                    森 言一郎 牧師
     マタイによる福音書 9章35節~10章16節

 

 心をとめたいこと。

 

 それは12人の弟子たちを宣教のために派遣される直前に記録されているイエスさまの〈心情〉です。

 

 飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆との出会いの中、主は「深く憐れまれた」とあります。

 

 この一語を読み飛ばしてはなりません。日本語の持つ「憐れみ」のニュアンスとイエスさまの心情を表す「憐れみ」は別ものだからです。


 ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」と表現しました。

 

 「コンパシオンは、ただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」と言われます。


 「憐れみ」という言葉は、弟子たちを、そして私たちを、傷みや失意、恐れの中にある人々のところへ赴かせます。

 

 そこで求められるのは成功体験ではありません。

 

 ただ共に身を置くことであり、弱い人と共に弱くなり、無力な人と共に無力になることです。

 

 そこでの真実な祈りと賛美こそ、力と希望に変えられる扉です。end

 

 


◇先週の信徒礼拝・奨励より◇   ☆2017/8/27 

 

聖書を読み聖書に聴く

   布下 満 兄                           -マの信徒への手紙117

 

 新約聖書27書の内には、実にパウロの手紙13書が含まれている。パウロ自筆の手紙(7書とされている)すべてイエスの死後30年までに書かれた。

 

従ってイエスについての最古の証言、発足したばかりのキリスト教のイエス信仰の証言と言える。
使徒パウロは三回に及ぶ命がけの伝道旅行をしているが、ユダヤ民族の壁を越えた「異邦人伝道」、そして「世界宗教」へ拡大してゆく先駆者、開拓者であった。

 

その神学の根幹は「信仰義認」であり、後のマルチン・ルタ-の「宗教改革」(1517)の原動力ともなった中心教義である。

 

パウロの手紙は論理的で難解であるが、聖書理解のためには避けて通ることはできない。 

 *********************************

-マの信徒への手紙 15

信徒一同、声を合わせて朗読し

その奥義を心に聴こうとつとめる。

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end 

 

 


2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。
2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/20 
        「 マタイの創造
                    森 言一郎 牧師
           マタイによる福音書 9章9節~13節

 

 ここに登場する徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。

 

 それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。


 パウロが第二コリント書5章17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と記しましたが、まさにその出来事が起こります。


 世の中に溢れているものがあります。

 

 テレビやラジオ、そして新聞にも様々な〈声〉があります。インターネットの時代になり、興味あることを調べようとすると、驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

 しかし、キリスト者に必要なのは、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉です。

 

 程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。イエスさまが罪人や徴税人たちと食事をなさった時のことです。

 

 マタイは【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、生涯、主に従って行く決心が出来たのです。

 

 わたしたちも主のお招きに応える時、創造のみ業が起こります。ここに福音があります。end 

 

 

2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡
2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/13 
        「 落ち着いて、静かにしていなさい
                    笹部 一正 牧師
          イザヤ書 7章1節~17節

 

 当時メソポタミアのアッスリヤが、アラムと北イスラエルの侵略を狙っていました。アッスリヤを迎え撃つ為に、アラムと北イスラエルはユダ王国に同盟を結ぶ事を求めました。

 

 申し出を拒否したばっかりに、ユダ王国に攻め入れようとしました。動揺したアハズ王に対して、主は「落ち着いて、静かにしていなさい」と、語ります。

 

 しかし、王は彼らが恐れているアッスリヤの援助を要請しようとします。

 

 イザヤは、南ユダの取るべき道はアッスリヤともアラム、北イスラエルとも軍事同盟を結ばない永世中立の立場を主張します。イザヤはアハズ王に決断を求めます。戦いのしるしをどこに求めるからです。

 

 アハズ王の「主を試す様な事はしない」と言う発言の裏に、アッスリヤの援助を求めざるを得ない事を暗示しています。

 

 イザヤは、王の優柔不断な態度に対して、神の側から与えられるしるしを提示します。

 

 そのしるしは、ひとりの若い女性が身籠って、男の子を生み、《インマヌエル》と呼ばれる事です。それは、神の働きのしるしを指しています。

 

 この意味は、神に聴き従わないないなら、アハズ王に代わる王が生まれる事を指しています。end 

 

 


2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい
2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/8/6 
        「 執り成しを生きるために 」
                    森 言一郎 牧師
          創世記 18章16節~33節

 

 キリスト者にとって、執り成しの祈りを捧げることは大切なつとめです。

 

 アブラハムは甥っ子のロトが暮らすソドムが滅亡の危機にあることを知り、主のみ前で必死の交渉を始めます。これが執り成しです。

 

 何人かの義人が居るとしたら、どうか滅びの裁きから逃れさせて下さい、と祈るのです。

 

 アブラハムの前に立っておられる主ご自身も喜ばれたことでしょう。


 一見するとアブラハムによる執り成しの祈りは上手くいったかのように見えます。

 

 しかし、続く19章にはソドムの滅亡の場面が描かれています。ソドムに義人は一人も居なかった。ソドムにはアブラハムの執り成しではとても足りない不義が蔓延していたのです。

 

 聖書を読む時に求められる肝心なことがあります。とりわけ、旧約を読む時には、新約のイエス・キリストの姿を思いながらみ言葉に向き合うことが大切です。

 

 つまりこのアブラハムによる執り成しの場面は、一人のお方の執り成しを待ち望みつつ、み言葉に聴くことが求められるのです。それが主イエスによる執り成しです。

 

 人間には常に限界があります。そのことを率直に認めつつ、尚、執り成しの祈りを捧げる姿勢をもつことこそが私たちのつとめです。end

 

 


2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした
2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/30  

        「 ムダであって、ムダでない事 」

          笹部 一正 牧師
         ルカによる福音書 5章1節~5節

 

 

 加賀乙彦著の「宣告」では「獄中の死刑囚達」が取り扱われています。

 

 母は朝早く起きて作ったちらし鮨等を食べる様に言います。穏やかに辞退する死刑 ???。母達が帰った後の事です。「やぁこれだけのご馳走もったいないな。どっちにしても食欲はないか」。区長(刑務官)の微笑が、死刑囚の閉じていた掛け金をはずした。「いえ頂戴します」。急ぎの仕事の様に、鮨を頬張る。???「どうした」と区長。

 

 「お前、さっきは死んどったが???うまいか」

 

 「食べた処で何の役にも立たない訳ですが」???。

 

 著者は、処刑を明日に控えた死刑囚に、人間は人生と言う「時間の世界」だけで終わるのではない。永遠の世界がある事を言わんとしているのではないだろうか?

 

 ゲネサレト湖の朝、不漁の状況の中で沈黙して網を洗っています。イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と命じます。

 

 「先生、私達は夜通し苦労しましたが???。お言葉ですから網を降ろしてみましょう。」

 

 聖書は、愚かな動作が何にもならない事を知りながら敢えてイエス様のお言葉に従う人間を描いています。一見してムダに見える事もこのお方の元では、ムダではない、そういう世界が拡がっています。

 


 


2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました
2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました

   ◇先週の信徒礼拝より◇   ☆2017/7/23 
        「 聖書を考える 」

                    ※村上伸著「聖書を考える」より
                 伊丹 敏久 兄
           出エジプト記 20章2節~17節

 

 聖書を読むと言うことは、イエス・キリストを見上げることと同時に神がどの様な方で、私達にどの様な生き方を望んでおられるかを知ることが出来るということです。


 イエス・キリストについては昔から多くの書物がありますが、やはり新約聖書を読むのが一番良いのです。

 

 聖書は理解しにくい部分も多いかもしれないが、分からなければもう一度繰り返し読む、それによって最初に心に残った言葉が生きてくることがある。

 

 聖書の最も良い注釈書は聖書そのものである!

 

 旧約聖書には全部で39巻の文書が収められていますが、その内容は多種多様です。しかしその中にも中心になる思想があります。

 

 それは十戒です。

 

 一見不自由さを感じる十戒ですが、じつは愛のため、人を生かすため、祝福された生活が実現するために神の愛によって与えられた律法なのです。

 

 旧約聖書は、イエス・キリストを待望する人々の声であり、深い神の御心を証ししている。

 

 神の言葉であると言えます。
 


2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐
2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/16 
        「 もう一人の放蕩息子 」
                    森 言一郎 牧師
         ルカによる福音書 15章22節~32節

 

 ここには怒りを抑えきれず、感情のままにその思いを父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように真面目一本槍で生きて来た者にとって、父親の弟息子に対する気前の良さは受け入れ難いいことでした。

 

何しろ、財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟は、放蕩の限りを尽くし、異邦の国でのけがれを身に帯びて帰って来ているのです。

 

にもかかわらず、父親は弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。信じられないことでした。

 

 実はこの兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学

者〉の分身です。弟息子の方は、イエスさまの元にやって来て話を聴いていた〈徴税人や罪人たち〉でした。

 

 お兄ちゃんをなだめようとした父親は宴席を離れて外に出ますが、その父に対して、兄がこれ程までに激しくぶつかって行ったことなど無かったのです。

 

 この場面、兄さん息子が父親の胸にしっかりと抱きしめられていたことが肝心です。兄が父の元に帰って来た瞬間だからです。父からすれば兄ももう一人の愛する息子でした。

 

私たち、兄のような一面をもっていないでしょうか。日曜日の礼拝は父の元に立ち帰る絶好の機会です。end


 

 

 


2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね
2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね

    ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/2 
       「 わたしは笑いませんでした 」
                    森 言一郎 牧師
         創世記 18章1節~15節


 天幕の内側で身をひそめ、夫アブラハムと三人の旅人たちとの会話を聴いていたサラ。

 

 彼女は間もなく90歳になろうとしている自分と100歳になるアブラハムの間に子どもが生まれるという知らせを耳にした時【ひそかに笑った】のです。サラはこの時、三人の旅人たちが、神のみ遣いであることに気付いていたはずでした。


 旅人たちはアブラハムにもサラにも聞こえるように言います。【主に不可能なことがあろうか】と。

 

そして、【来年の今ごろには、〈イサク=彼は笑うの意味〉という名の男の子を抱いているだろう】と続けたのです。


 旧約聖書の中でサラは女の人の中で唯一、召されていった時の年齢が記される人です。

 

 聖書は、そんな特別な人ですら、主の前にあって愚かしい存在であることを赤裸々に告げ、自分の生き方を考えてご覧なさい、と促しています。


 イエスの母マリアが、み使いの訪問を受け、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」という驚くべき言葉に触れた時に【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】(ルカ福音書1:38)ことを思い起こしましょう。

 

 サラの物語は、救い主イエス・キリストの来臨の出来事を通して完成するのです。end
      

 


2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉
2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉

     ◇先週の説教より◇

                ☆2017/6/19 
       「夜の訪問者」
              森 言一郎 牧師

    ヨハネによる福音書3章1節~15節


 ニコデモは「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。

 

 律法を学び、徳も知恵もあったことでしょう。でもニコデモの心は満たされていませんでした。
 
 ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったことにも深い意味があります。教えを乞う姿を他の人たちに見られたくなかったからです。

 

 彼が闇の中をさまよい続けていたことをも暗示しています。
 
 ニコデモに必要なもの。

 

 それは更なる教えや学びではありません。イエスを救い主として信じる信仰でした。結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまうのです。
 
 しかしニコデモはイエスさまと再会する時を迎えます。十字架の死を遂げられた主イエスのご遺体を引き取る時でした。

 

 彼が決定的な新生の時を迎えるのは、主の十字架を仰いだ時なのです。もはや、周囲の人々の目を気にしないニコデモがそこに居ます。
 
 イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。ニコデモに必要だったのは、自分自身が何と不完全な者であるか、という告白でした。人にはゆるさも必要です。
 
 その告白は共に礼拝するわたしたちにも求められています。end