聖書のお話


礼拝メッセージより み言葉をどうぞ

               *折々の写真と共に


2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪  A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿
2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪ A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/15 
         「 信仰のまなこによって 」
                             森 言一郎 牧師
              創世記 21章1節~21節
  
 

 女主人のサラ。彼女は夫アブラハムの側女ハガルが生んだイシュマエルが邪魔になりました。イサクが与えられたからです。

 

 追い出された母ハガルは息子を連れて荒れ野をさまよいます。

 

 やがて、革袋の水も尽きたハガルは息子と共に死の危機に瀕します。イシュマエルの死を覚悟し、木陰に置き去りにするのです。

 

 しかし、もはや涙するしかなくなっていたハガルに対して、神さまはみ使いを通じて「立ち上がれ、あの子を腕に抱きなさい」と語りかけます。

 

 それを聴いたハガルは立ち上がります。すると重大な変化が起こりました。目が開かれたのです。そして、その目で見いだしたのが荒れ野に湧き出ていた井戸でした。彼女は革袋に水を満たし息子に飲ませます。

 

 神さまはハガルに対して、「あそこに井戸があるから立ち上がれ」とは言われません。生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐ側にあるのを見つけたのは、ハガルが神のみ声を聴き立ち上がったからです。
 
 私たちの人生には、単純素朴にみ声に聴き従う時に見えて来る道があります。その時に与えられるのが信仰のまなこなのです。
 
 その途上には、命の水を汲み続けることが出来る井戸が備えられています。end

 

 


2017年10月8日(日)今日の秋色脇役は、セイタカアワダチソウです。
2017年10月8日(日)今日の秋色脇役は、セイタカアワダチソウです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/8 
         「 地縁、血縁から別れを告げるアブラム」
                             笹部 一正 牧師
               創世記 12章1~4節、
15章1~6節
  
 

 何故、神様はアブラムに慣れ親しんだ生まれ故郷から、主の示された土地へ向かうよう命じたのでしょうか。

 

聖書を読むと、私達は神が人間にとんでもない事を命じておられる記事に多く遭遇します。

ところが、1~11章の物語は、血縁地縁に繋がった人間の姿...。

ここには人間が罪に陥った物語が描かれています。

 

 

 12章からのアブラム物語は、イスラエルの歴史の出発点である事に注目したいと思います。

アブラム物語の出発は、目的地よりも生まれ故郷を離れる事に強調点が置かれています。

一家親族も同じ地域に住み、利権を守り、結束したと観られています。

地縁血縁の社会は、共同体の秩序を破壊する事を聖書は語っています。


  12章は、今までの地縁血縁の原初史と闘った文書であります。

15章で主は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と、天の星ほどの子孫が与えられる事を語られました。

「アブラムは高齢にも拘わらず主を信じた」と...。


 わたしたちが課題に直面した時「自分自身を確かにさせる」手段が必要です。

私達は、主を信じる信仰に導かれました。

 

 どれだけ「主が自分自身を確かにされる」方として受け止めているかが問われています。 end

 

 


2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪
2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/1 
         「 その人を罪人と見なしなさい」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 18章10節~20節
  
 

 人が罪を犯してしまった時に、心から相手のことを思いながら過ちを指摘し諭すること。それが【忠告】です。

 

 忠告は二人だけの所でしなさい、とイエスさまは言われます。どうしても忠告を受け容れない時には、【その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい】と仰るのです。〈罪人〉と断定せよ、ということです。


 なんだか冷たい響きを感じる言葉で、私は長い間、躓きを覚えていました。

 

 ところが、イエスさまが「愛に根ざして真理を語る」お方なのだと気付いた時に、「もしや」と思い、目が開かれました。このお言葉にこそ救いがあるのだと。


 徴税人マタイが召し出された時のことを思い出しましょう。その直後、イエスさまはマタイを含む罪人たちと車座になって宴を開くのです。
そして仰いました。【私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人招くためだ】と。


 救いを本当に必要とするのは《罪人》以外にありません。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために、罪人の烙印を押して下さるお方です。

 

 ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。共に喜びましょう。end

 

 


2017年9月24日 彩り添える黄色いカーネ-ションから優しい雰囲気が伝わって来ます
2017年9月24日 彩り添える黄色いカーネ-ションから優しい雰囲気が伝わって来ます

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/24 
         「 ノアの息子たち」
                    笹部 一正 牧師
              創世記9章18節~28節
  
 

 「ノアは葡萄畑を作り始めた」と...。

日本の新教は、明治にアメリカの宣教師達がピュ-リタンの伝統を継いでいました。

禁酒禁煙を実現しようとして、宣教師達もお酒を止めて、日本の教会に守らせようとしました。ところが聖書に於いては、葡萄酒は「顔の色艶を良くする油」と、書かれています。

 

「酒造りの先祖ノア」が偲ばれます。

しかし「ノアは酔っ払って裸で横になっていた」と...。

 

この物語はノアの酔っ払いではなく、年老いた父ノアへの三人の息子達の振る舞いであります。三男ハムは「父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」と、書かれています。

 

ところが「セムとヤフェトは着る物を持って来て、肩にかけ後ろ向きに歩いて、父の裸を覆った」と記載されています。これは老いた父や母の心や振る舞い、それも自然な老化現象であるのに、その恥部を突き刺して軽蔑しているのです。

二人の息子は老いた父の哀れな醜さ、恥を自分で見ようとはしません。

他の誰にも見せないようにそっと覆った、隠したというのであります。

 

美しい白髪は栄光の冠でありますが、老人と若者の共同作業であると想われます。私たちは心したいと思います。

 

 

 

 


2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。
2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/17 
         「 毒麦が引き抜かれないわけ」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 13章24節~30節
  
 

 私たちは時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

 「毒麦」の譬え話とはあくまでも〈天の国〉の譬え話なのです。ここで示されるのは世間一般に通用する倫理ではありません。
 
 「善は急げ」という言葉をご存じだと思います。譬え話の僕たちも直ぐに行動に移そうとします。ところが主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。
 
 イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。それは最後のさいごになって、天の国では思いがけないことが起こる可能性があるからです。
 
 私たちが人生の途上で育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が複雑に絡みついているからです。
 
 良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていることを知りましょう。
 
 イエスさまは仰います。【両方とも育つままにしておきなさい】と。毒麦が最後に「悔い改める」かも知れない。
 
 神さまはその日まで待ち続けて下さる忍耐強いお方です。そこには、計り知れないほど深い愛があります。end

 

 

 


2017年9月10日(日)十文字平和教会の講壇献花です 秋ですね
2017年9月10日(日)十文字平和教会の講壇献花です 秋ですね

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/10 
        「 弟子たちの派遣
                   浜田 美也子 牧師
        マルコによる福音書 6章6b~13節

 

 イエスは12弟子を付近の村々に派遣します。12は完全数ですから、弟子の中に私たちも含まれるのです。杖一本だけ持ってパンも袋もお金も持たせないでこの世界に遣わすのです。


 当時神殿の中に入るときは、何も持つことができませんでした。村々、家々を巡るとき、あたかもそれが神の家であるかのように訪れよとイエスは命じられたのです。

 

 けれども、もし拒まれたなら、足の裏の塵を払い落して出ていきなさいとも命じられるのです。


 私たちの宣べ伝えには限界があります。不十分でしかありません。だから、後は神が働くのです。「ミッション オブ ゴッド」という神学用語があります。本当に働くのは神ご自身なのです。

 

 私たちはその使い走りをしているだけです。イエスは不十分な私たちを、遣わされます。私たちは出かけていき、できるだけのことはします。時に失敗し、時に相手を怒らせ、傷つけます、また傷つけられます。成果もあげられません。

 

 弟子たちの失敗と無力さと不信仰と自己顕示欲と裏切りは、私たちの姿なのです。こんな弟子たちを、つまり私たちをイエスは癒し、慰めてくださるのです。

 


2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所
2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/3 
        「 我ら、主の憐れみに生きる
                    森 言一郎 牧師
     マタイによる福音書 9章35節~10章16節

 

 心をとめたいこと。

 

 それは12人の弟子たちを宣教のために派遣される直前に記録されているイエスさまの〈心情〉です。

 

 飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆との出会いの中、主は「深く憐れまれた」とあります。

 

 この一語を読み飛ばしてはなりません。日本語の持つ「憐れみ」のニュアンスとイエスさまの心情を表す「憐れみ」は別ものだからです。


 ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」と表現しました。

 

 「コンパシオンは、ただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」と言われます。


 「憐れみ」という言葉は、弟子たちを、そして私たちを、傷みや失意、恐れの中にある人々のところへ赴かせます。

 

 そこで求められるのは成功体験ではありません。

 

 ただ共に身を置くことであり、弱い人と共に弱くなり、無力な人と共に無力になることです。

 

 そこでの真実な祈りと賛美こそ、力と希望に変えられる扉です。end

 

 


◇先週の信徒礼拝・奨励より◇   ☆2017/8/27 

 

聖書を読み聖書に聴く

   布下 満 兄                           -マの信徒への手紙117

 

 新約聖書27書の内には、実にパウロの手紙13書が含まれている。パウロ自筆の手紙(7書とされている)すべてイエスの死後30年までに書かれた。

 

従ってイエスについての最古の証言、発足したばかりのキリスト教のイエス信仰の証言と言える。
使徒パウロは三回に及ぶ命がけの伝道旅行をしているが、ユダヤ民族の壁を越えた「異邦人伝道」、そして「世界宗教」へ拡大してゆく先駆者、開拓者であった。

 

その神学の根幹は「信仰義認」であり、後のマルチン・ルタ-の「宗教改革」(1517)の原動力ともなった中心教義である。

 

パウロの手紙は論理的で難解であるが、聖書理解のためには避けて通ることはできない。 

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-マの信徒への手紙 15

信徒一同、声を合わせて朗読し

その奥義を心に聴こうとつとめる。

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end 

 

 


2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。
2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/20 
        「 マタイの創造
                    森 言一郎 牧師
           マタイによる福音書 9章9節~13節

 

 ここに登場する徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。

 

 それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。


 パウロが第二コリント書5章17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と記しましたが、まさにその出来事が起こります。


 世の中に溢れているものがあります。

 

 テレビやラジオ、そして新聞にも様々な〈声〉があります。インターネットの時代になり、興味あることを調べようとすると、驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

 しかし、キリスト者に必要なのは、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉です。

 

 程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。イエスさまが罪人や徴税人たちと食事をなさった時のことです。

 

 マタイは【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、生涯、主に従って行く決心が出来たのです。

 

 わたしたちも主のお招きに応える時、創造のみ業が起こります。ここに福音があります。end 

 

 

2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡
2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/13 
        「 落ち着いて、静かにしていなさい
                    笹部 一正 牧師
          イザヤ書 7章1節~17節

 

 当時メソポタミアのアッスリヤが、アラムと北イスラエルの侵略を狙っていました。アッスリヤを迎え撃つ為に、アラムと北イスラエルはユダ王国に同盟を結ぶ事を求めました。

 

 申し出を拒否したばっかりに、ユダ王国に攻め入れようとしました。動揺したアハズ王に対して、主は「落ち着いて、静かにしていなさい」と、語ります。

 

 しかし、王は彼らが恐れているアッスリヤの援助を要請しようとします。

 

 イザヤは、南ユダの取るべき道はアッスリヤともアラム、北イスラエルとも軍事同盟を結ばない永世中立の立場を主張します。イザヤはアハズ王に決断を求めます。戦いのしるしをどこに求めるからです。

 

 アハズ王の「主を試す様な事はしない」と言う発言の裏に、アッスリヤの援助を求めざるを得ない事を暗示しています。

 

 イザヤは、王の優柔不断な態度に対して、神の側から与えられるしるしを提示します。

 

 そのしるしは、ひとりの若い女性が身籠って、男の子を生み、《インマヌエル》と呼ばれる事です。それは、神の働きのしるしを指しています。

 

 この意味は、神に聴き従わないないなら、アハズ王に代わる王が生まれる事を指しています。end 

 

 


2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい
2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/8/6 
        「 執り成しを生きるために 」
                    森 言一郎 牧師
          創世記 18章16節~33節

 

 キリスト者にとって、執り成しの祈りを捧げることは大切なつとめです。

 

 アブラハムは甥っ子のロトが暮らすソドムが滅亡の危機にあることを知り、主のみ前で必死の交渉を始めます。これが執り成しです。

 

 何人かの義人が居るとしたら、どうか滅びの裁きから逃れさせて下さい、と祈るのです。

 

 アブラハムの前に立っておられる主ご自身も喜ばれたことでしょう。


 一見するとアブラハムによる執り成しの祈りは上手くいったかのように見えます。

 

 しかし、続く19章にはソドムの滅亡の場面が描かれています。ソドムに義人は一人も居なかった。ソドムにはアブラハムの執り成しではとても足りない不義が蔓延していたのです。

 

 聖書を読む時に求められる肝心なことがあります。とりわけ、旧約を読む時には、新約のイエス・キリストの姿を思いながらみ言葉に向き合うことが大切です。

 

 つまりこのアブラハムによる執り成しの場面は、一人のお方の執り成しを待ち望みつつ、み言葉に聴くことが求められるのです。それが主イエスによる執り成しです。

 

 人間には常に限界があります。そのことを率直に認めつつ、尚、執り成しの祈りを捧げる姿勢をもつことこそが私たちのつとめです。end

 

 


2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした
2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/30  

        「 ムダであって、ムダでない事 」

          笹部 一正 牧師
         ルカによる福音書 5章1節~5節

 

 

 加賀乙彦著の「宣告」では「獄中の死刑囚達」が取り扱われています。

 

 母は朝早く起きて作ったちらし鮨等を食べる様に言います。穏やかに辞退する死刑 ???。母達が帰った後の事です。「やぁこれだけのご馳走もったいないな。どっちにしても食欲はないか」。区長(刑務官)の微笑が、死刑囚の閉じていた掛け金をはずした。「いえ頂戴します」。急ぎの仕事の様に、鮨を頬張る。???「どうした」と区長。

 

 「お前、さっきは死んどったが???うまいか」

 

 「食べた処で何の役にも立たない訳ですが」???。

 

 著者は、処刑を明日に控えた死刑囚に、人間は人生と言う「時間の世界」だけで終わるのではない。永遠の世界がある事を言わんとしているのではないだろうか?

 

 ゲネサレト湖の朝、不漁の状況の中で沈黙して網を洗っています。イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と命じます。

 

 「先生、私達は夜通し苦労しましたが???。お言葉ですから網を降ろしてみましょう。」

 

 聖書は、愚かな動作が何にもならない事を知りながら敢えてイエス様のお言葉に従う人間を描いています。一見してムダに見える事もこのお方の元では、ムダではない、そういう世界が拡がっています。

 


 


2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました
2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました

   ◇先週の信徒礼拝より◇   ☆2017/7/23 
        「 聖書を考える 」

                    ※村上伸著「聖書を考える」より
                 伊丹 敏久 兄
           出エジプト記 20章2節~17節

 

 聖書を読むと言うことは、イエス・キリストを見上げることと同時に神がどの様な方で、私達にどの様な生き方を望んでおられるかを知ることが出来るということです。


 イエス・キリストについては昔から多くの書物がありますが、やはり新約聖書を読むのが一番良いのです。

 

 聖書は理解しにくい部分も多いかもしれないが、分からなければもう一度繰り返し読む、それによって最初に心に残った言葉が生きてくることがある。

 

 聖書の最も良い注釈書は聖書そのものである!

 

 旧約聖書には全部で39巻の文書が収められていますが、その内容は多種多様です。しかしその中にも中心になる思想があります。

 

 それは十戒です。

 

 一見不自由さを感じる十戒ですが、じつは愛のため、人を生かすため、祝福された生活が実現するために神の愛によって与えられた律法なのです。

 

 旧約聖書は、イエス・キリストを待望する人々の声であり、深い神の御心を証ししている。

 

 神の言葉であると言えます。
 


2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐
2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/16 
        「 もう一人の放蕩息子 」
                    森 言一郎 牧師
         ルカによる福音書 15章22節~32節

 

 ここには怒りを抑えきれず、感情のままにその思いを父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように真面目一本槍で生きて来た者にとって、父親の弟息子に対する気前の良さは受け入れ難いいことでした。

 

何しろ、財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟は、放蕩の限りを尽くし、異邦の国でのけがれを身に帯びて帰って来ているのです。

 

にもかかわらず、父親は弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。信じられないことでした。

 

 実はこの兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学

者〉の分身です。弟息子の方は、イエスさまの元にやって来て話を聴いていた〈徴税人や罪人たち〉でした。

 

 お兄ちゃんをなだめようとした父親は宴席を離れて外に出ますが、その父に対して、兄がこれ程までに激しくぶつかって行ったことなど無かったのです。

 

 この場面、兄さん息子が父親の胸にしっかりと抱きしめられていたことが肝心です。兄が父の元に帰って来た瞬間だからです。父からすれば兄ももう一人の愛する息子でした。

 

私たち、兄のような一面をもっていないでしょうか。日曜日の礼拝は父の元に立ち帰る絶好の機会です。end


 

 

 


2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね
2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね

    ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/2 
       「 わたしは笑いませんでした 」
                    森 言一郎 牧師
         創世記 18章1節~15節


 天幕の内側で身をひそめ、夫アブラハムと三人の旅人たちとの会話を聴いていたサラ。

 

 彼女は間もなく90歳になろうとしている自分と100歳になるアブラハムの間に子どもが生まれるという知らせを耳にした時【ひそかに笑った】のです。サラはこの時、三人の旅人たちが、神のみ遣いであることに気付いていたはずでした。


 旅人たちはアブラハムにもサラにも聞こえるように言います。【主に不可能なことがあろうか】と。

 

そして、【来年の今ごろには、〈イサク=彼は笑うの意味〉という名の男の子を抱いているだろう】と続けたのです。


 旧約聖書の中でサラは女の人の中で唯一、召されていった時の年齢が記される人です。

 

 聖書は、そんな特別な人ですら、主の前にあって愚かしい存在であることを赤裸々に告げ、自分の生き方を考えてご覧なさい、と促しています。


 イエスの母マリアが、み使いの訪問を受け、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」という驚くべき言葉に触れた時に【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】(ルカ福音書1:38)ことを思い起こしましょう。

 

 サラの物語は、救い主イエス・キリストの来臨の出来事を通して完成するのです。end
      

 


2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉
2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉

     ◇先週の説教より◇

                ☆2017/6/19 
       「夜の訪問者」
              森 言一郎 牧師

    ヨハネによる福音書3章1節~15節


 ニコデモは「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。

 

 律法を学び、徳も知恵もあったことでしょう。でもニコデモの心は満たされていませんでした。
 
 ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったことにも深い意味があります。教えを乞う姿を他の人たちに見られたくなかったからです。

 

 彼が闇の中をさまよい続けていたことをも暗示しています。
 
 ニコデモに必要なもの。

 

 それは更なる教えや学びではありません。イエスを救い主として信じる信仰でした。結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまうのです。
 
 しかしニコデモはイエスさまと再会する時を迎えます。十字架の死を遂げられた主イエスのご遺体を引き取る時でした。

 

 彼が決定的な新生の時を迎えるのは、主の十字架を仰いだ時なのです。もはや、周囲の人々の目を気にしないニコデモがそこに居ます。
 
 イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。ニコデモに必要だったのは、自分自身が何と不完全な者であるか、という告白でした。人にはゆるさも必要です。
 
 その告白は共に礼拝するわたしたちにも求められています。end