聖書のお話


礼拝メッセージより み言葉をどうぞ

               *折々の写真と共に


2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。
2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/20 
        「 マタイの創造
                    森 言一郎 牧師
           マタイによる福音書 9章9節~13節

 

 ここに登場する徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。

 

 それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。


 パウロが第二コリント書5章17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と記しましたが、まさにその出来事が起こります。


 世の中に溢れているものがあります。

 

 テレビやラジオ、そして新聞にも様々な〈声〉があります。インターネットの時代になり、興味あることを調べようとすると、驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

 しかし、キリスト者に必要なのは、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉です。

 

 程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。イエスさまが罪人や徴税人たちと食事をなさった時のことです。

 

 マタイは【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、生涯、主に従って行く決心が出来たのです。

 

 わたしたちも主のお招きに応える時、創造のみ業が起こります。ここに福音があります。end 

 

 


2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡
2017年8月13日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り ⟡ほうずきの色味が今の季節を物語っています⟡

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/13 
        「 落ち着いて、静かにしていなさい
                    笹部 一正 牧師
          イザヤ書 7章1節~17節

 

 当時メソポタミアのアッスリヤが、アラムと北イスラエルの侵略を狙っていました。アッスリヤを迎え撃つ為に、アラムと北イスラエルはユダ王国に同盟を結ぶ事を求めました。

 

 申し出を拒否したばっかりに、ユダ王国に攻め入れようとしました。動揺したアハズ王に対して、主は「落ち着いて、静かにしていなさい」と、語ります。

 

 しかし、王は彼らが恐れているアッスリヤの援助を要請しようとします。

 

 イザヤは、南ユダの取るべき道はアッスリヤともアラム、北イスラエルとも軍事同盟を結ばない永世中立の立場を主張します。イザヤはアハズ王に決断を求めます。戦いのしるしをどこに求めるからです。

 

 アハズ王の「主を試す様な事はしない」と言う発言の裏に、アッスリヤの援助を求めざるを得ない事を暗示しています。

 

 イザヤは、王の優柔不断な態度に対して、神の側から与えられるしるしを提示します。

 

 そのしるしは、ひとりの若い女性が身籠って、男の子を生み、《インマヌエル》と呼ばれる事です。それは、神の働きのしるしを指しています。

 

 この意味は、神に聴き従わないないなら、アハズ王に代わる王が生まれる事を指しています。end 

 

 


2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい
2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/8/6 
        「 執り成しを生きるために 」
                    森 言一郎 牧師
          創世記 18章16節~33節

 

 キリスト者にとって、執り成しの祈りを捧げることは大切なつとめです。

 

 アブラハムは甥っ子のロトが暮らすソドムが滅亡の危機にあることを知り、主のみ前で必死の交渉を始めます。これが執り成しです。

 

 何人かの義人が居るとしたら、どうか滅びの裁きから逃れさせて下さい、と祈るのです。

 

 アブラハムの前に立っておられる主ご自身も喜ばれたことでしょう。


 一見するとアブラハムによる執り成しの祈りは上手くいったかのように見えます。

 

 しかし、続く19章にはソドムの滅亡の場面が描かれています。ソドムに義人は一人も居なかった。ソドムにはアブラハムの執り成しではとても足りない不義が蔓延していたのです。

 

 聖書を読む時に求められる肝心なことがあります。とりわけ、旧約を読む時には、新約のイエス・キリストの姿を思いながらみ言葉に向き合うことが大切です。

 

 つまりこのアブラハムによる執り成しの場面は、一人のお方の執り成しを待ち望みつつ、み言葉に聴くことが求められるのです。それが主イエスによる執り成しです。

 

 人間には常に限界があります。そのことを率直に認めつつ、尚、執り成しの祈りを捧げる姿勢をもつことこそが私たちのつとめです。end

 

 


2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした
2017年7月中旬 十文字平和教会の正面からこんにちは 夏空が広がって会堂と共に美しい午後でした

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/30  

        「 ムダであって、ムダでない事 」

          笹部 一正 牧師
         ルカによる福音書 5章1節~5節

 

 

 加賀乙彦著の「宣告」では「獄中の死刑囚達」が取り扱われています。

 

 母は朝早く起きて作ったちらし鮨等を食べる様に言います。穏やかに辞退する死刑 ???。母達が帰った後の事です。「やぁこれだけのご馳走もったいないな。どっちにしても食欲はないか」。区長(刑務官)の微笑が、死刑囚の閉じていた掛け金をはずした。「いえ頂戴します」。急ぎの仕事の様に、鮨を頬張る。???「どうした」と区長。

 

 「お前、さっきは死んどったが???うまいか」

 

 「食べた処で何の役にも立たない訳ですが」???。

 

 著者は、処刑を明日に控えた死刑囚に、人間は人生と言う「時間の世界」だけで終わるのではない。永遠の世界がある事を言わんとしているのではないだろうか?

 

 ゲネサレト湖の朝、不漁の状況の中で沈黙して網を洗っています。イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と命じます。

 

 「先生、私達は夜通し苦労しましたが???。お言葉ですから網を降ろしてみましょう。」

 

 聖書は、愚かな動作が何にもならない事を知りながら敢えてイエス様のお言葉に従う人間を描いています。一見してムダに見える事もこのお方の元では、ムダではない、そういう世界が拡がっています。

 


 


2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました
2017年7月中旬 十文字平和教会から 数百メートルの所に 秋の味覚柿がなり始めていました

   ◇先週の信徒礼拝より◇   ☆2017/7/23 
        「 聖書を考える 」

                    ※村上伸著「聖書を考える」より
                 伊丹 敏久 兄
           出エジプト記 20章2節~17節

 

 聖書を読むと言うことは、イエス・キリストを見上げることと同時に神がどの様な方で、私達にどの様な生き方を望んでおられるかを知ることが出来るということです。


 イエス・キリストについては昔から多くの書物がありますが、やはり新約聖書を読むのが一番良いのです。

 

 聖書は理解しにくい部分も多いかもしれないが、分からなければもう一度繰り返し読む、それによって最初に心に残った言葉が生きてくることがある。

 

 聖書の最も良い注釈書は聖書そのものである!

 

 旧約聖書には全部で39巻の文書が収められていますが、その内容は多種多様です。しかしその中にも中心になる思想があります。

 

 それは十戒です。

 

 一見不自由さを感じる十戒ですが、じつは愛のため、人を生かすため、祝福された生活が実現するために神の愛によって与えられた律法なのです。

 

 旧約聖書は、イエス・キリストを待望する人々の声であり、深い神の御心を証ししている。

 

 神の言葉であると言えます。
 


2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐
2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/16 
        「 もう一人の放蕩息子 」
                    森 言一郎 牧師
         ルカによる福音書 15章22節~32節

 

 ここには怒りを抑えきれず、感情のままにその思いを父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように真面目一本槍で生きて来た者にとって、父親の弟息子に対する気前の良さは受け入れ難いいことでした。

 

何しろ、財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟は、放蕩の限りを尽くし、異邦の国でのけがれを身に帯びて帰って来ているのです。

 

にもかかわらず、父親は弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。信じられないことでした。

 

 実はこの兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学

者〉の分身です。弟息子の方は、イエスさまの元にやって来て話を聴いていた〈徴税人や罪人たち〉でした。

 

 お兄ちゃんをなだめようとした父親は宴席を離れて外に出ますが、その父に対して、兄がこれ程までに激しくぶつかって行ったことなど無かったのです。

 

 この場面、兄さん息子が父親の胸にしっかりと抱きしめられていたことが肝心です。兄が父の元に帰って来た瞬間だからです。父からすれば兄ももう一人の愛する息子でした。

 

私たち、兄のような一面をもっていないでしょうか。日曜日の礼拝は父の元に立ち帰る絶好の機会です。end


 

 

 


2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね
2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね

    ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/2 
       「 わたしは笑いませんでした 」
                    森 言一郎 牧師
         創世記 18章1節~15節


 天幕の内側で身をひそめ、夫アブラハムと三人の旅人たちとの会話を聴いていたサラ。

 

 彼女は間もなく90歳になろうとしている自分と100歳になるアブラハムの間に子どもが生まれるという知らせを耳にした時【ひそかに笑った】のです。サラはこの時、三人の旅人たちが、神のみ遣いであることに気付いていたはずでした。


 旅人たちはアブラハムにもサラにも聞こえるように言います。【主に不可能なことがあろうか】と。

 

そして、【来年の今ごろには、〈イサク=彼は笑うの意味〉という名の男の子を抱いているだろう】と続けたのです。


 旧約聖書の中でサラは女の人の中で唯一、召されていった時の年齢が記される人です。

 

 聖書は、そんな特別な人ですら、主の前にあって愚かしい存在であることを赤裸々に告げ、自分の生き方を考えてご覧なさい、と促しています。


 イエスの母マリアが、み使いの訪問を受け、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」という驚くべき言葉に触れた時に【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】(ルカ福音書1:38)ことを思い起こしましょう。

 

 サラの物語は、救い主イエス・キリストの来臨の出来事を通して完成するのです。end
      

 


2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉
2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉

     ◇先週の説教より◇

                ☆2017/6/19 
       「夜の訪問者」
              森 言一郎 牧師

    ヨハネによる福音書3章1節~15節


 ニコデモは「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。

 

 律法を学び、徳も知恵もあったことでしょう。でもニコデモの心は満たされていませんでした。
 
 ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったことにも深い意味があります。教えを乞う姿を他の人たちに見られたくなかったからです。

 

 彼が闇の中をさまよい続けていたことをも暗示しています。
 
 ニコデモに必要なもの。

 

 それは更なる教えや学びではありません。イエスを救い主として信じる信仰でした。結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまうのです。
 
 しかしニコデモはイエスさまと再会する時を迎えます。十字架の死を遂げられた主イエスのご遺体を引き取る時でした。

 

 彼が決定的な新生の時を迎えるのは、主の十字架を仰いだ時なのです。もはや、周囲の人々の目を気にしないニコデモがそこに居ます。
 
 イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。ニコデモに必要だったのは、自分自身が何と不完全な者であるか、という告白でした。人にはゆるさも必要です。
 
 その告白は共に礼拝するわたしたちにも求められています。end