聖書のお話


礼拝メッセージより み言葉をどうぞ

               *折々の写真と共に


2018年5月6日(日) 
2018年5月6日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/13
      「 よわさの真価 」                   

             渡辺 真一 牧師(岡山博愛会教会)                  

    第2コリント書 12章1節~10節より
  
 

 「強さ」が肯定的に、「弱さ」が否定的に受け止められている現代において、聖書は大切な信仰の視点を伝えています。

 

 立派で後ろ指をさされることがない「強さ」に満ちたパウロが、不思議な信仰体験を経てキリスト教に改宗し、そして「弱さ」を大切に生きることを語っています。

 

 パウロは強さを捨て、弱さの中でこそ与えられる深い恵みを知った人なのです。
 

 創造者なる神が、あえて人間に欠けや弱さを携えさせたのは、何か意味があるのでしょうか。

 

 思えば、もし人間が欠けのない完全な存在として造られたならば、私たちは他者を必要とせずとも生き、何事も自己完結してしまいます。そのような人の内には、隣人との愛の関係を築けないでしょうし、神を必要とさえしないかもしれません。
 

 「弱さ」とはしばしば私たちを悩ませるものですが、一方で私たちが互いを必要として生きるための大切な事柄なのです。

 

 主イエスが示された「愛」とは、強さの中から生まれるものではなく、この弱さを通して、知り、育まれ、実現するものなのです。

 

 「弱さ」は、神の恵みと出会う大切な意味を持つのです。自らの弱さと他者の弱さ。これらを通して働く愛の力を誇りとし、神が備えたもう大きな恵みとして受け止めて歩んでいきたいと願うのです。end

 

 


2018年5月6日(日) 
2018年5月6日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/5/6
     「 赤裸々な姿に学ぶ 鏡としての聖書」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               創世記 27章1~29節
  
 

 族長イサク。彼は100歳を過ぎて命に限りを覚える日々を過ごしていました。

 

彼は妻リベカを通して「弟が兄に仕えることになる」という啓示を知っていたのです。

 

しかし、それを無視し、長男のエサウを死ぬ前に祝福しようとします。

 

妻リベカは双子の弟息子ヤコブを溺愛。夫でありヤコブの父であるイサクを騙す

テクニックを吹き込みます。神の祝福の略奪を促しました。

 

双子の兄エサウの軽率な言動は目に余ります。 とても、長男として、次の世代の族長としての祝福を受けるに相応しい人には見えません。

 

弟ヤコブはどうか。彼の行動には神への問いかけは全くありません。母の言いなりでした。

 

新約に目を転じますとマタイ福音書の冒頭にはイエス・キリストの系図があります。

見方を変えるとそれは罪人たちの系譜です。アブラハム・イサク・ヤコブの名もあります。

 

パウロも言いました。【義人はいない、一人もいない】(ローマ書3:10)と。

 

 創世記27章に登場する人々は、誰をみても罪人であることは明らかです。しかし、ヤコブも、エサウも、リベカも、イサクも神の民の誕生のために〈欠かせない罪人〉なのです。

 

彼らこそ救い主に繋がる大切な存在です。そこに私たちの救いの道が見えています。end 


2018年4月29日(日) 
2018年4月29日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/4/29
     「 もう一度 漁に出よう」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 21章1~14節
  
 

 【わたしは漁に行く】。そう声をあげたのはペトロです。主から託された宣教に恐れをなした7人は舟を出します。

この場面、もはや弟子たちが伝道を投げ出してしまったのでは、と読める場面です。

 

夜明け頃、岸辺から声が聞こえました。

 

「おかずになりそうな魚はあるかい」と呼びかけたのはイエスさまでした。

しかし弟子たちは気付きません。

ペトロは「あるもんかい、見りゃ分かるだろう」と投げやりの返事をします。

すると、イエスさまは舟の右側に網を投げるよう命じられます。 

その通りにすると、網が破れそうになる程の大漁となるのです。

 

 この時、弟子の一人が【主だ】と気付き叫びます。

裸同然であったペトロは、上着をまとって湖に飛び込みます。

罪の身の恥ずかしさを隠さずには居れませんでした。

 

陸(おか)でイエスさまがパンを裂いて分け与えて下さる場面は、初代教会の礼拝の姿を示しています。

彼らは懺悔の思いを抱きながら、主が準備された朝食を囲みます。

ゆるしの主イエスが真ん中に居られ、弟子たちに向かって、もう一度「人間をとる漁に出なさい」と促される声が聞こえるかのようです。

この声は私たちの教会への呼び掛けに他なりません。  end

 


2018年4月15日(日) 
2018年4月15日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/4/15
     「 だいじょうぶのイエス」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 20章19~31節
  
 

 イエスは甦られたという知らせは、弟子たちにとって福音ではなく迫害の【恐れ】を抱かせるものとなりました。

 

彼らがエルサレムのとある家に身を隠して息を潜めていた時、家中の鍵を下ろしていたことが伝えられていますが、これは彼らの心模様も表しています。

 

そんな弟子たちに対してイエスさまは驚くべき仕方でお姿を顕わされます。

 

彼らの真ん中に立たれたイエスさま。

 

岡山弁で言うならば「だいじょうぶじゃ」と言って下さったのです。よそ行きの言葉ではなく、弟子たちの心に届く言葉で復活のイエスさまは語られました。

 

しかも、イエスさまは弟子たちに対して<罪の赦し>の宣教のために派遣されるという使命を与えられます。

 

彼らは息を吹き掛けられて新しい人として創造されたのです。

彼らは赦されています。

 

一週間後、疑い深い弟子として知られるトマスにだけに出会っているように見えるイエスさまですが、私は違うと思います。

 

先に宣教を託された10人の弟子たち。ますます迫害を恐れていました。だからこそ、もう一度全員に対して「だいじょうぶじゃ」が必要だったのです。

 

このお言葉に支えられて、新牧師を迎えた十文字平和教会の歩みは始まり

ました。end


2018年3月25日(日) 
2018年3月25日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/3/25
       「 イエスの渇き」                   

                     森 言一郎 牧師

                  

               ヨハネによる福音書 19章28~42節
  
 

 十字架の上で死を遂げられる直前にイエスさまが発せられた二つの言葉に注目しましょう。

 

先ず「渇く」と叫ばれたイエスさまのみ心を知りたいのです。

 

イエスさまの〈渇き〉が究極に於いて意味していること。

 

それはこれから先、私たちの魂の渇きがどんな形で襲って来たとしても、もう大丈夫、という宣言であるということです。

 

なぜなら、イエスさまが我々の魂の渇きを完全に身に帯びて下さるからです。

 

私たちが二度と再び、渇き切ったままの状態になってしまうことが無いよう、ご自分を信じる者に対して永遠に至る命の水を与え続けると約束されたのです。

 

それがどれほど完璧なものであるのかということを言い切るものがもう一つの

「成し遂げられた」という最期の言葉でした。

 

これは決して「あ-、これで終わってしまった」というようなものではありません。

 

イエスさまの最期のお言葉に真実な力があるのは、口先のものではないから

です。

 

そのご生涯全体を通じて紡ぎ出されたもの。

 

イエスさまの全生涯を通じての一刻も休むことのない、その歩みがあってこその

力を帯びたお言葉なのです。

 

ヨハネ福音書が【初めに言があった】から始まるのは必然でした。 end

 


2018年3月4日(日) 
2018年3月4日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/3/4
       「 極みまでの愛」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  ヨハネによる福音書 13章1~20節
  
 

 ユダの裏切りが起こる直前のこと。

 

12人の弟子たちの足をひざまずいて洗われるイエスさまは、単に足の汚れを落とそうとされるのではありません

 

「上着を脱ぐ」そのお姿には「命を捨てる」という意味が。洗い終わられたイエスさまが「上着を着る」お姿には「復活の命に生きる」という意味が秘められています。

 

ペトロとのやり取りから浮かび上がること。

 

それは、全ての弟子たちは主による洗足を受ける必要があるということです。

 

イエスさまの十字架の死によって罪を清められ、救いの命にあずかる道が

この洗足によって明らかにされています。

 

英語で「礼拝」のことを「サービス・service」と表現します。この言葉の元来の意味は「奉仕」ということです。

 

私たちが捧げている礼拝ではどのような「サービス」が行われているのでしょう。

 

肝心なのは、先ず、イエスさまが私たちのためにひざまずいて「サービス」して下さっているということです。その順番が肝心です。

 

我々は何よりも礼拝に於いてイエスさまからの「サービス」を受ける必要があります。それがあるからこそ、私たちはゆるされた者として生きることが出来るのです。

end

 

 


2018年2月18日(日) 
2018年2月18日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/18
       「 井戸を掘り続けた人 イサク」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  創世記 26章1~35節
  
 

 

 イサク。 彼は父アブラハムや息子たちのエサウとヤコブと比べてみると常に脇役です。

創世記26章ではイサクにスポットライトが当たりますが、大きな盛り上がりが見られる話はありません。

 

飢饉の話、妻を妹と偽る話、神さまの祝福の約束、種を蒔くと100倍の祝福を受けた話、ペリシテ人に意地悪されても挫けることなく井戸を掘り続ける様子、ペリシテ人との和解の話が続きます。

 

 私は結婚式の司式をする際に、星野富弘さんの作品・『日日草』を新郎新婦への祝福の思いを込めて紹介することがあります。

                                              *

 

今日もまた一つ 悲しいことがあった 今日もまた一つ うれしいことがあった

笑ったり泣いたり 望んだり あきらめたり にくんだり あいしたり・・・・・そして

これら一つ一つを柔らかく包んでくれた数え切れないほど沢山の平凡なことが

あった

                                              *

 ここにはその時その時のイサクの精一杯が記されています。

彼は失敗もします。神さまの声も聞きます。笑顔も見えます。戸惑いの表情があります。しかし、ドラマティックではありません。

 人生、晴れ舞台の日は少なく、多くは平凡な毎日です。

でも、イサクはいつも誠実に真面目に生きました。

 

神の国にはイサクのような人がどうしても必要なのです  end

 

 


2018年2月4日(日) 
2018年2月4日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/2/4
       「 主の招く声が聞こえる」 
                  

                     森 言一郎 牧師

                  

                  マルコによる福音書 1章9~20節
  
 

 

 イエスの宣教の第一声を思い巡らしてみましょう。

ヨルダン川で洗礼を受けたイエスは、罪人と同じ地平に立ち、サタンの誘惑に満ちたこの世に身を置かれます。

 

 

 その直後に【悔い改めて福音を信じなさい】と語り始めたのです

 

30年ほど前に神学校で学び始めた頃、「低みに立ち、方向転換をする」ことの大切さを思うようになりました。

 

しかし最近、さらに深い意味合いが【悔い改め】にはあることを芥川賞作家でカトリックの信者である重兼芳子さんのある本を読んだ時に気付きました。

 

重兼さん。こういう意味のことを記されているのです。

 

「自分は神の前に壊れた存在であることを認めることが悔い改めです。反省する、後悔するとか、倫理道徳とは関係ない。み前で私は全く不完全ですと告白することです」と。

 

 イエスは神の国の福音を宣べ伝えようとされた時、当時の神学校に人材を探しに行かれたのではありません。

 

ガリラヤ湖畔でいつも通りに網を繕っていた漁師たちを招かれたのです。

彼らは向きを変えて立ち上がりました。

 

【わたしに従いなさい】という声が聞こえます。

 

【悔い改めて福音を信じる】ことは、イエスに従って生きて行くことそのものなの

です。end

 


2018年1月21日(日) 
2018年1月21日(日) 

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/21
       「 旅する家族」
           

                     森 言一郎 牧師

                  マタイによる福音書 2章1~12節
  
 

 2歳迄の男児虐殺の危機を脱すべく聖家族はエジプトに向かいます。

 

戻って来る時も同様ですが、夢の中でお告げを受けたヨセフは沈黙のまま命令に従います。

 

ヨセフが夢から【起きる】という言葉は、全て「甦り」を意味する語です。

 

福音書記者マタイは新しい命に生きることを意味する語を、敢えて用いて

いるのです。

 

マタイはエレミヤ書31章にあるラマでの悲しみの記事を引用します。

 

ところが、「涙は拭われ、苦しみは報いられる。必ず帰国の時が来る。未来には希望!」という箇所を略しました。

 

旧約に精通した人々を意識したマタイらしい黙示的な記事なのです。

 

「読者よ悟れ」というメッセ-ジです。

 

イエスの帰国によって「めでたいなぁ」と言って喜ぶのは早いのです。

 

イエスはキリストとして十字架の上で命を捧げなければならない。

 

ここまでのクリスマス物語は、28章まで続く受難と復活に向けての始まりに

過ぎません。

 

洗礼者ヨハネの「悔い改めて福音を信ぜよ」の記事が続くのも偶然では

ないのです。

 

旅する家族の中心は一見すると頼りにならない小さき存在である幼子

イエスです。

 

このインマヌエルの支えと守りは、皆さんの2018年の旅路にも約束されています。 end

 


2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青
2018年1月7日(日)                                                        新年のスタ-トにふさわしい色鮮やかな万年青

     ◇先週の説教より◇   

☆2018/1/7
       「 不思議 だけどそれで良し」

                          森 言一郎 牧師

                   創世記 25章7~11節、19~34節
  
 

 アブラハムが75歳の時に故郷を旅立つ際に約束されたのは祝福の源になることでした。

 

アブラハムは目に入れても痛くない程愛したイサクに祝福を引き継ぐため、召される直前まで苦心していた様子が記録されています。

 

実際イサクは大事な役割を果たしますが、それ以上に大切なのは神ご自身がイサクを祝福されたという事実(25:11)でした。

 

その後、イサクを通じて生まれてくる双子の息子たちエサウとヤコブの内、とりわけ、弟ヤコブの存在は、実に不思議な位置付けで描かれています。

 

ヤコブは兄エサウの足を引っぱるようにして母の胎から出て来る所からして問題多き存在です。

 

しかもヤコブは、父イサクが愛していたエサウの空腹を見計らって長子の権利を奪い取る等、抜け目ない嫌らしいヤツなのです。

 

                       *

 

イスラエルとは神の民を象徴的にあらわす名前。つまり祝福を受け継ぐのはヤコブなのです。

 

果たしてヤコブとは誰なのか考える必要があります。それは〈あなた〉であり〈私〉です。

 

そこに福音の真理、不思議があります。  end

 


2017年12月31日(日)
2017年12月31日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/31
       「 クリスマスを考える」

           村上 伸 著 いのちを望む神より

                     伊丹 敏久 兄

                   ルカによる福音書 2章10節~14節
  
 

 キリスト教の暦(教会暦)では、クリスマス前の4週間(待降節)から、新しい一年の歩みを始めることになっています。

 

待降節をアドベントと言いますが、これは「来る」という意味のラテン語から来た言葉です。

キリストがこの世に来られるのを待つという意味をこめているのです。

クリスマスが近づくと人は何となく普段よりも優しい思いやりの心を持つようになります。それは、イエス・キリストが誰よりも人を愛された方で、苦しみの中にある人々と涙を共にされたと言う事を思うからでしょう。

                       *

 第二次世界大戦中のドイツの詩人、ヨッヘン・クレッパ-はユダヤ人である妻と子が、アウシュビッツに送られることが明らかになった時、家族でガス自殺を遂げました。キリスト者の彼にとって自殺は罪です。

しかし彼は、この極限状態の中でもキリストを仰ぐことをやめてはいませんでした。それは、イエス・キリストがどん底の人間を愛し、いつもそばに立ち給う方で、地獄の底までも下りてくださる方だと信じて片時も疑わなかったからでしょう。

 イエス・キリストの誕生は神の力によって、この世が「新しく」始まったことを意味しているのです。処女降誕という生理学的に説明の出来ない出来事も、それは神の力によって、驚くべき新しい出来事として起こったことなのです。 

 私たちは、決して一人ではないのです。

そこに既にイエス・キリストがいる。この喜び。

 それが、皆さんの中に与えられ、新しい自己が誕生し、その静かな、深い喜びを持って新しい年を迎えましょう。  end

 


2017年12月24日(日)
2017年12月24日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/24
       「 隙間のあるクリスマスへ」

                       森 言一郎 牧師

                   ルカによる福音書 2章1節~21節
  
 

 皇帝アウグストゥスによる住民登録の勅令でにぎわっていたベツレヘムの町にヨセフとマリアの姿がありました。

 

しかし、二人を受け止めてくれる親戚も宿屋もありません。

 

結局、寒風吹き抜ける隙間だらけの家畜小屋の飼い葉桶が、救いのみ子イエスが生まれ来る場所となるのです。

 

そこには、神さまのみ心が働いていました。

 

                       *

 

勅令の対象、数の内に入らなかったのが、荒れ野で星空と寒空のもと、羊たちの世話をしていた羊飼いたちでした。

 

み使いからの【今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたのために救い主がお生まれになった。・・・あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける】の声を聴いた羊飼いたちは、飼い葉桶のみ子のもとに向かいます。

 

世界で最初のクリスマスでした。

 

もしも幼子イエスが、宿屋や神殿に生まれてきたとしたら足を踏み入れることは出来ません。

 

隙間だらけの家畜小屋だからこそ、何の恐れもなく、【さあ、ベツレヘムへ】と足を踏み出すことが出来たのです。

 

                       *

 

自分のことばかりが優先し、心の内がすし詰め状態の私たち。

 

キリストを迎え入れられるように、クリスマスの今日、隙間のある生き方を始めたいと願います。end

 

 


2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。
2017年12月3日(日)旭東教会の森 美樹さんよりの贈り物です。

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/12/3
         「 マリアの賛歌」

         
                    森 言一郎 牧師

               ルカによる福音書 1章39節~56節
  
 

 【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】と告白したマリア。

 

マリアとはどのような女性だったのでしょうか。

 

「受胎告知」の場面には、マリアの生い立ちなどの情報はありません。

 

いいなずけのヨセフがダビデ家の末裔であり【夫ヨセフは正しい人であった】(マタイ福音書1:19)と紹介されているのとは明らかに違います。

 

 【ナザレ】というマリアの出身の町は旧約聖書には一度も出てきません。

 

【ナザレから何か良いものが出るだろうか】(ヨハネ福音書1:46)と紹介されているような町です。また、マリアが頼りにしたエリザベトおばさんがアロン家の娘であり、その夫ザカリアが祭司であったのとも一線を画するのです。

 

*

 

 「マリアの賛歌」=「マグニフィカ-ト」の中の【身分の低い、この主のはしため】という言葉は、彼女自身の自己認識でした。

 

神様の選びが、このような小さな者に注がれているという喜びがあります。

 

 「マグニフィカ-ト」は、英語の「magnifying glass」=「虫眼鏡」の語源でもあります。

 

小さな者を顧み、米粒のような者を愛して下さる神の愛を、私たちは見いだすのですend

 

 


2017年11月26日(日)
2017年11月26日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/26
         「 主のまなざしの下で」

         
                    阪西 恵理子 牧師

              サムエル記上 16章1節~13節
              ルカによる福音書 18章9節~14節
  
 

 私たちは外見の印象で人を判断してしまうが、神の視点は異なる。

 

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」

サムエル記上16章7節

 

*

 

見た目で判断されない神はまた、年齢や華々しい成功や信仰年数にも左右されることなく、人の進退もまた神の手の中にある。

 

かつてサウル王に油を注がれたのは主であり、退けられるのも主ならば、次にダビデを立てられるのも主である。

 

また【主は心によって見る】ことは、イエス様の譬え話にも通ずる。

二人の心の内は傍目には分からない。

見えない心の中をクロ-ズアップしている。

ファリサイ派の人は「自分に罪のないことを感謝する祈り」を捧げ、徴税人はうつむいたまま胸をたたき続けて主の憐れみを請うたという。

イエス様はこの物語を『(自分)を正しい人間であると確信し、(その自分と比べ)他人を取るに足らないと考える』人々に対して話をされたのだという。

 

私たちは用いられる時もあれば退けられる時も来る。

また悔いることもあれば、傲慢な考えに陥ることもある。

神は弱さを抱えた我々に救い主をお与えくださった。

 

その愛と公正に満ちたまなざしの下に私たちは置かれている。

感謝と謙虚な思いをもって受け止めさせていただきたい。  end

 

 


2017年11月19日(日)
2017年11月19日(日)

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/19
         「 愛すること 愛されること」

         
                    森 言一郎 牧師
              ルカによる福音書 10章25節~37節
  
 

 皆さんは人を「愛す」という言葉の反対語として何という言葉を考えるでしょう。

 

私は「見て見ぬ振りをする」「無視する」という状況、そして言葉を考えます。

 

*

 

善きサマリア人の譬え話として馴染みのあるこの場面、半死の重傷を負った人を見かけた祭司とレビ人のとった行動は同じでした。

 

【その人を見ると、道の向こう側を通って行った】のです。

 

 一方、ユダヤ人とは歴史的にも敵対関係にあり、蔑視されていた通りがかりのサマリア人は、これ以上のことは出来ないだろう、という程の行動と憐みをもって介抱します。

 

イエスは言われました。【行って、あなたも同じようにしなさい】と。

 

*

 

 もしも、この譬え話の結語を新しい律法として教訓的に受け止めるだけならば、我々はいつか必ず行き詰まります。出来ない自分に直面するからです。

 

私たちは無力な自分であることを認めざるをえません。

 

しかし勇気を出しましょう。

 

倒れていた名も無い旅人はこの私であり、愛をもって救ってくれたサマリア人はイエスさまであることを心に刻む所から始めるのです。

 

人生の旅路に於いて、善きサマリア人に倣うチャンスは必ず訪れます。その日その時を待ち望みましょう。end

 

 


2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝
2017年11月5日(日)永眠者記念礼拝

     ◇先週の説教より◇   

☆2017/11/5 
         「 アブラハムが捧げたもの」

         
                           森 言一郎 牧師
              創世記 22章1節~19節
  
 

 イサクが生まれ、喜びの絶頂期にあったアブラハムに試練が襲います。

「独り子を焼き尽くすげものとして献げなさい」という神様の命令です。

 

神さまはここに集った私たちにも問うのです。

「あなたは礼拝の時の献げものとして、もっとも大切なものを本当に携えて来ているか」と。

 

アブラハムにも葛藤があったでしょう。

しかし彼は、必要最小限の言葉を口にするだけで、黙々と道を進みます。

息子イサクから「おとうさん、焼き尽くす献げものはどこにいるのですか?」と

話しかけられた時には、既に覚悟を決めていました。

主のお言葉に最後まで従うことを。

 

 目的地に到着し、祭壇を築き、息子イサクを祭壇の上に置いたアブラハム。

いざ刃物をもって、というその時、神さまはストップをかけます。

アブラハムのとった行動に、確かな信仰を確認されたからです。

 

私たちも、信じ行う信仰を全うしようとする時に、神さまの備えに気付くのです。

 イサクの代わりに備えられていた一匹の雄羊。

 

その存在はイエスさまの到来を告げる洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ福音書1:29)と叫んだ言葉と重なります。

 

主の救いのご計画に感謝いたしましょう。 end

 

 


2017年10月22日(日)リンドウの紫色が鮮やか
2017年10月22日(日)リンドウの紫色が鮮やか

     ◇先週の信徒礼拝より◇   ☆2017/10/22 
         「 神との出会い 」

         キリスト教の人生論:桑田秀延著をもとにして

           自らの体験も加えてのあかし


                             布下 満 兄
              ルカによる福音書 15章17節~20節
  
 

 われわれ現実生活における人間関係には二種類あって、「われとそれ」「われとなんじ」がそれである

 

 つまり人格関係の有無にかかわっている。

人間はたいての場合自己本位(エゴイスト)なので、最も身近にいる人とさえ人格関係を結ぶ事が出来ないでいる。

つまり出会いがない。

 

旧約聖書(創世記)には、神に創られた人が神にそむき追放された。そして兄弟殺しまで起こしている。神から離れた人間は罪の世界に入る。人は自分の力では罪からは、どうあがいても逃れることはできない。

 

たった一つ道がある。

神の前に罪のままの自分を投げ出すことだ。

ただ、神の恵みにたよる他はない。

 

人間のエゴイズムという邪魔者(苦・罪・死)をイエス・キリストは十字架上で一切をにない、取り除かれた。

光の道をそなえてくれた。

そこで人は自らの罪を認め悔い改めて、神との間に人格的 やわらぎ(和解)が必要となる。

そのことが「神との出会い」である。 end

 

 


2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪  A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿
2017年10月15日(日)十文字平和教会の講壇にささげられた可憐なお花たちです(^^♪ A姉がさり気なく美しくご奉仕下さいますヽ(^。^)丿

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/15 
         「 信仰のまなこによって 」
                             森 言一郎 牧師
              創世記 21章1節~21節
  
 

 女主人のサラ。彼女は夫アブラハムの側女ハガルが生んだイシュマエルが邪魔になりました。イサクが与えられたからです。

 

 追い出された母ハガルは息子を連れて荒れ野をさまよいます。

 

 やがて、革袋の水も尽きたハガルは息子と共に死の危機に瀕します。イシュマエルの死を覚悟し、木陰に置き去りにするのです。

 

 しかし、もはや涙するしかなくなっていたハガルに対して、神さまはみ使いを通じて「立ち上がれ、あの子を腕に抱きなさい」と語りかけます。

 

 それを聴いたハガルは立ち上がります。すると重大な変化が起こりました。目が開かれたのです。そして、その目で見いだしたのが荒れ野に湧き出ていた井戸でした。彼女は革袋に水を満たし息子に飲ませます。

 

 神さまはハガルに対して、「あそこに井戸があるから立ち上がれ」とは言われません。生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐ側にあるのを見つけたのは、ハガルが神のみ声を聴き立ち上がったからです。
 
 私たちの人生には、単純素朴にみ声に聴き従う時に見えて来る道があります。その時に与えられるのが信仰のまなこなのです。
 
 その途上には、命の水を汲み続けることが出来る井戸が備えられています。end

 

 


2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪
2017年10月1日(日)午後4時過ぎ 十文字平和教会の会堂前 小さな秋が届いていました(^^♪

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/10/1 
         「 その人を罪人と見なしなさい」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 18章10節~20節
  
 

 人が罪を犯してしまった時に、心から相手のことを思いながら過ちを指摘し諭すること。それが【忠告】です。

 

 忠告は二人だけの所でしなさい、とイエスさまは言われます。どうしても忠告を受け容れない時には、【その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい】と仰るのです。〈罪人〉と断定せよ、ということです。


 なんだか冷たい響きを感じる言葉で、私は長い間、躓きを覚えていました。

 

 ところが、イエスさまが「愛に根ざして真理を語る」お方なのだと気付いた時に、「もしや」と思い、目が開かれました。このお言葉にこそ救いがあるのだと。


 徴税人マタイが召し出された時のことを思い出しましょう。その直後、イエスさまはマタイを含む罪人たちと車座になって宴を開くのです。
そして仰いました。【私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人招くためだ】と。


 救いを本当に必要とするのは《罪人》以外にありません。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために、罪人の烙印を押して下さるお方です。

 

 ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。共に喜びましょう。end

 

 


2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。
2017年9月18日(月・休日) 野外バーベキューの豊かな時をもちました。十文字平和教会と旭東教会を中心に。I兄が皆のために、十文字平和教会オリジナルの賛美をギターでリードしているところです。

     ◇先週の説教より◇   ☆2017/9/17 
         「 毒麦が引き抜かれないわけ」
                             森 言一郎 牧師
          マタイによる福音書 13章24節~30節
  
 

 私たちは時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

 「毒麦」の譬え話とはあくまでも〈天の国〉の譬え話なのです。ここで示されるのは世間一般に通用する倫理ではありません。
 
 「善は急げ」という言葉をご存じだと思います。譬え話の僕たちも直ぐに行動に移そうとします。ところが主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。
 
 イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。それは最後のさいごになって、天の国では思いがけないことが起こる可能性があるからです。
 
 私たちが人生の途上で育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が複雑に絡みついているからです。
 
 良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていることを知りましょう。
 
 イエスさまは仰います。【両方とも育つままにしておきなさい】と。毒麦が最後に「悔い改める」かも知れない。
 
 神さまはその日まで待ち続けて下さる忍耐強いお方です。そこには、計り知れないほど深い愛があります。end

 

 

 


2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所
2017年9月3日(日)十文字平和教会の講壇 説教中の森牧師です。ヘンリ・ナーウェンの「コンパッシヨン」という本の一節を紹介している所

◇先週の説教より◇   ☆2017/9/3 
        「 我ら、主の憐れみに生きる
                    森 言一郎 牧師
     マタイによる福音書 9章35節~10章16節

 

 心をとめたいこと。

 

 それは12人の弟子たちを宣教のために派遣される直前に記録されているイエスさまの〈心情〉です。

 

 飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆との出会いの中、主は「深く憐れまれた」とあります。

 

 この一語を読み飛ばしてはなりません。日本語の持つ「憐れみ」のニュアンスとイエスさまの心情を表す「憐れみ」は別ものだからです。


 ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」と表現しました。

 

 「コンパシオンは、ただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」と言われます。


 「憐れみ」という言葉は、弟子たちを、そして私たちを、傷みや失意、恐れの中にある人々のところへ赴かせます。

 

 そこで求められるのは成功体験ではありません。

 

 ただ共に身を置くことであり、弱い人と共に弱くなり、無力な人と共に無力になることです。

 

 そこでの真実な祈りと賛美こそ、力と希望に変えられる扉です。end

 

 


◇先週の信徒礼拝・奨励より◇   ☆2017/8/27 

 

聖書を読み聖書に聴く

   布下 満 兄                           -マの信徒への手紙117

 

 新約聖書27書の内には、実にパウロの手紙13書が含まれている。パウロ自筆の手紙(7書とされている)すべてイエスの死後30年までに書かれた。

 

従ってイエスについての最古の証言、発足したばかりのキリスト教のイエス信仰の証言と言える。
使徒パウロは三回に及ぶ命がけの伝道旅行をしているが、ユダヤ民族の壁を越えた「異邦人伝道」、そして「世界宗教」へ拡大してゆく先駆者、開拓者であった。

 

その神学の根幹は「信仰義認」であり、後のマルチン・ルタ-の「宗教改革」(1517)の原動力ともなった中心教義である。

 

パウロの手紙は論理的で難解であるが、聖書理解のためには避けて通ることはできない。 

 *********************************

-マの信徒への手紙 15

信徒一同、声を合わせて朗読し

その奥義を心に聴こうとつとめる。

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end 

 

 


2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。
2017年8月20日(日) 礼拝堂の献花 秋の訪れを告げる虫の音が聞こえて来そうです。A姉のご奉仕に感謝。

◇先週の説教より◇   ☆2017/8/20 
        「 マタイの創造
                    森 言一郎 牧師
           マタイによる福音書 9章9節~13節

 

 ここに登場する徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。

 

 それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。


 パウロが第二コリント書5章17節で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と記しましたが、まさにその出来事が起こります。


 世の中に溢れているものがあります。

 

 テレビやラジオ、そして新聞にも様々な〈声〉があります。インターネットの時代になり、興味あることを調べようとすると、驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

 しかし、キリスト者に必要なのは、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉です。

 

 程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。イエスさまが罪人や徴税人たちと食事をなさった時のことです。

 

 マタイは【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、生涯、主に従って行く決心が出来たのです。

 

 わたしたちも主のお招きに応える時、創造のみ業が起こります。ここに福音があります。end 

 

 


2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい
2017年8月6日(日) 礼拝堂の献花 A姉の祈り 光と影と合わせて美しい

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/8/6 
        「 執り成しを生きるために 」
                    森 言一郎 牧師
          創世記 18章16節~33節

 

 キリスト者にとって、執り成しの祈りを捧げることは大切なつとめです。

 

 アブラハムは甥っ子のロトが暮らすソドムが滅亡の危機にあることを知り、主のみ前で必死の交渉を始めます。これが執り成しです。

 

 何人かの義人が居るとしたら、どうか滅びの裁きから逃れさせて下さい、と祈るのです。

 

 アブラハムの前に立っておられる主ご自身も喜ばれたことでしょう。


 一見するとアブラハムによる執り成しの祈りは上手くいったかのように見えます。

 

 しかし、続く19章にはソドムの滅亡の場面が描かれています。ソドムに義人は一人も居なかった。ソドムにはアブラハムの執り成しではとても足りない不義が蔓延していたのです。

 

 聖書を読む時に求められる肝心なことがあります。とりわけ、旧約を読む時には、新約のイエス・キリストの姿を思いながらみ言葉に向き合うことが大切です。

 

 つまりこのアブラハムによる執り成しの場面は、一人のお方の執り成しを待ち望みつつ、み言葉に聴くことが求められるのです。それが主イエスによる執り成しです。

 

 人間には常に限界があります。そのことを率直に認めつつ、尚、執り成しの祈りを捧げる姿勢をもつことこそが私たちのつとめです。end

 

 


2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐
2017年7月16日(日) 十文字平和教会の礼拝堂の献花 いつもながら美しい、そして、可憐

   ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/16 
        「 もう一人の放蕩息子 」
                    森 言一郎 牧師
         ルカによる福音書 15章22節~32節

 

 ここには怒りを抑えきれず、感情のままにその思いを父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように真面目一本槍で生きて来た者にとって、父親の弟息子に対する気前の良さは受け入れ難いいことでした。

 

何しろ、財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟は、放蕩の限りを尽くし、異邦の国でのけがれを身に帯びて帰って来ているのです。

 

にもかかわらず、父親は弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。信じられないことでした。

 

 実はこの兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学

者〉の分身です。弟息子の方は、イエスさまの元にやって来て話を聴いていた〈徴税人や罪人たち〉でした。

 

 お兄ちゃんをなだめようとした父親は宴席を離れて外に出ますが、その父に対して、兄がこれ程までに激しくぶつかって行ったことなど無かったのです。

 

 この場面、兄さん息子が父親の胸にしっかりと抱きしめられていたことが肝心です。兄が父の元に帰って来た瞬間だからです。父からすれば兄ももう一人の愛する息子でした。

 

私たち、兄のような一面をもっていないでしょうか。日曜日の礼拝は父の元に立ち帰る絶好の機会です。end


 

 

 


2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね
2017年7月 十文字平和教会の会堂の横に咲く〈紫陽花〉 これもまた美しいですね

    ◇先週の説教より◇   ☆2017/7/2 
       「 わたしは笑いませんでした 」
                    森 言一郎 牧師
         創世記 18章1節~15節


 天幕の内側で身をひそめ、夫アブラハムと三人の旅人たちとの会話を聴いていたサラ。

 

 彼女は間もなく90歳になろうとしている自分と100歳になるアブラハムの間に子どもが生まれるという知らせを耳にした時【ひそかに笑った】のです。サラはこの時、三人の旅人たちが、神のみ遣いであることに気付いていたはずでした。


 旅人たちはアブラハムにもサラにも聞こえるように言います。【主に不可能なことがあろうか】と。

 

そして、【来年の今ごろには、〈イサク=彼は笑うの意味〉という名の男の子を抱いているだろう】と続けたのです。


 旧約聖書の中でサラは女の人の中で唯一、召されていった時の年齢が記される人です。

 

 聖書は、そんな特別な人ですら、主の前にあって愚かしい存在であることを赤裸々に告げ、自分の生き方を考えてご覧なさい、と促しています。


 イエスの母マリアが、み使いの訪問を受け、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」という驚くべき言葉に触れた時に【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】(ルカ福音書1:38)ことを思い起こしましょう。

 

 サラの物語は、救い主イエス・キリストの来臨の出来事を通して完成するのです。end
      

 


2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉
2016年6月18日(日) 礼拝が終わって 筍があるよ声 〈ありました、ありました〉

     ◇先週の説教より◇

                ☆2017/6/19 
       「夜の訪問者」
              森 言一郎 牧師

    ヨハネによる福音書3章1節~15節


 ニコデモは「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。

 

 律法を学び、徳も知恵もあったことでしょう。でもニコデモの心は満たされていませんでした。
 
 ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったことにも深い意味があります。教えを乞う姿を他の人たちに見られたくなかったからです。

 

 彼が闇の中をさまよい続けていたことをも暗示しています。
 
 ニコデモに必要なもの。

 

 それは更なる教えや学びではありません。イエスを救い主として信じる信仰でした。結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまうのです。
 
 しかしニコデモはイエスさまと再会する時を迎えます。十字架の死を遂げられた主イエスのご遺体を引き取る時でした。

 

 彼が決定的な新生の時を迎えるのは、主の十字架を仰いだ時なのです。もはや、周囲の人々の目を気にしないニコデモがそこに居ます。
 
 イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。ニコデモに必要だったのは、自分自身が何と不完全な者であるか、という告白でした。人にはゆるさも必要です。
 
 その告白は共に礼拝するわたしたちにも求められています。end